さしのみ

東大で法律学んでる傍ら、高齢化とその他諸々の本、論文の要約レビュー等をやってます。感想・ご意見等、時間の限り書いて寄越してください。

【移民大国スウェーデン】スウェーデン生まれと移民とで別の介護システムが必要なん?ってお話

恥ずかしながら、実際に訪れるまではスウェーデンって白系ネイティブ・スウェーデン人だらけだと勘違いしてたんですが、実のところ世界指折りの移民国家だったわけであります。

数字上で見ますと、2014年時点で全人口の16%が外国で生まれた人なんだと。ちなみに、日本は1.1%(国立社会保障・人口問題研究所「第七回人口移動調査」)で、OECD内ではアメリカ13.1%、ドイツ12.8%ってな感じです(OECD International Migration Outlook2015)。スウェーデンの移民受け入れが本格化したのは二次大戦後、1970年代ごろからなので若い世代より若干数は少ないですが、65歳以上に限っても12%が外国生まれの方々。本文中で取り上げられる大まかなグループはサーミ系(ほとんど移民じゃない)、フィンランド系、ユダヤ系、南米系、イラン系、アラブ系となっております。アラビア語は方言の違いが大きすぎるので疑問符ですが、概ね言語別の分類になっているよう。

 

さて、本題はこうした民族集団ごとの介護施設の可否、具体的に言えば、政府中心のスウェーデンの介護システムの中で民族ごとのニーズにどこまで細かく対応すべきなのか、という議論ですね。

 

先日の記事と同様、ルンド大学ヨンソン博士らの研究なんですが、今回も1995年から2015年にかけてメディア上で発表された論文や記事を分析して、メディア上でどのような枠組みで問題が議論されてきたのか、という点について取り上げています。社会問題の見方、考え方というのは社会のあらゆる主体の活動によって随時恣意的に変化しているという考え方をSocial Constructionというんですが、そのうちマスメディアの役割を重視した結果、今回のようなメディア分析に至ったということなんですね。

 

博士らは、スウェーデンで広がりつつある民族集団ごとの介護施設とそれにまつわる問題に関して、主な2つの枠組みを提唱しています。①言語・文化フレームと②ライフスタイルの選択フレームです。順にさらっていきましょー。

 

①言語・文化フレーム

これは、ずばり、政府が提供する主流の介護施設では、高齢移民被介護者の個々の言語的・文化的ニーズに応えられないため、民族集団ごとの介護施設はその問題の解決策として重要だ、という見方ですね。

スウェーデンでは若者を中心に実用上英語も公用語になっているんですが、やはり彼ら彼女らはスウェーデン人。スウェーデン人が大半を占める介護サービス等は専らスウェーデン語で行われます。加えて、高齢移民の方は長年のスウェーデン在住歴にもかからわずスウェーデン語を話せない、或いは認知症等で少しずつスウェーデン語を忘れていってしまうとのことで、スウェーデン人スタッフと高齢移民被介護者との間で意思疎通が取れないってことが起こるそう。介護職は利用者さんとの意思疎通が最大の仕事なので、これは厳しいですねー。

そんなこんなで、現在に至るまで、民族集団ごとの介護施設がその数を増やしてきているわけなんです。

これだけ聞くと、いいことなんじゃねぇの?って思うんですが、筆者らは以下のように2つの問題点を指摘しております。

第一に、スウェーデン福祉の最大の特徴たるユニバーサルケア・システムとの兼ね合いですね。スウェーデン社会保障システムはサービスの画一性が特色となっとるわけです。画一性というと、個性を尊重するこのご時世、なんだか悪いことのように思われがちでしょう。そういう側面もあるんでしょうが、もともとスウェーデンでは、政府が社会保障の大元締めになっている以上、国の何処にいても、どんなバックグラウンドの人でも、同様に質の高いサービスを受けられるようにしよう、というのが基本理念なんですね。スウェーデンでは、みんなサービスを受ける権利があるという発想が根底にあるわけです。

ところがそこで、高齢移民のニーズに対応することは、どこまでが認められるべき=政府が責任を持つべき権利なの、という問題が出てきます。各人が自分の裁量で介護サービスを決めるんでなく、政府が各人の権利に基づいてサービスを一律に提供している以上、その権利の内容と範囲がサービスの内容の決定に重要な意味を持つわけなんです。政府の物的・人的リソースは有限で、かつ社会には支援を求めている社会集団は数限りなくある中で、高齢移民のニーズは際限なく認められていいの?ってことですね。

民族ごとの介護施設に好意的な論者は、彼らは彼らの望むサービスを受ける権利を社会的に与えられていると胸を張って主張しているわけです。加えて、政府はそうしたサービスを提供する義務があると。筆者らはこの主張に明確に反論しているわけではありませんが、留保を付している、という感じですね。

 

さて、第二は、「高齢移民」というカテゴリーって意味あるの?という疑義ですね。「人間」とか「基本的人権」って言われると真っ先に?が浮かぶ人がほとんどなんじゃないかと思うんですが、「高齢移民」という具体度で言われるとなんだか実際に存在している人、さらにはその人たちの求めていることって一様で対応可能な気がしてくるのが人間の認知の不思議ですが、当然彼ら彼女らの中にも様々な声があるわけです。上記の言語・文化フレームを批判する論者らは、「高齢移民」なんてカテゴリーで彼ら彼女らをひとくくりにして扱うのは横暴だと叫ぶんですね。LGBTQsとか、そもそもスウェーデン語を十分に話せるとか、いろんな人が含まれているんだから、大まとめにして扱うなと。これはよく見かける、かつごもっともなご意見でございまして、筆者らも「高齢移民」というカテゴリー、ひいては言語・文化フレームを様々な他のカテゴリーと比較しながら使うべきだと言っている訳なんでございます。

 

②ライフスタイルの選択フレーム

これらの批判に比較的うまく対応する第二の枠組みが、この第二の枠組みなわけです。上記のように高齢移民における言語的・文化的ニーズとそれへの対応という枠組みを相対化して、LGBTQsやその他、主流の介護施設では対応しきれない沢山のニーズを満たすために各人が自分にあったサービスを得られるように、沢山の選択肢が用意されているべきだという理論ですな。スウェーデン国内における社会保障サービスの民営化の流れ、更には他国でもみられる個別のニーズに応えようとする潮流にも合致している見方だと筆者らは指摘しています。

もっとも、ライフスタイルの選択フレームは、自由競争の原理を一部介護システムに導入することになり、不可避に前述のユニバーサルケア・システムと齟齬をきたすわけです。結果発生するであろう社会的不平等に対して、それをどのように評価し、かつどのように対応していくかという点については政府・社会双方にとって大きな課題になるでしょう、とのこと。

 

 

以上まとめますと、筆者らの結論は以下のよう。

まず、スウェーデンの介護システムは、従来の基盤たる画一的な人口構成が変化し多様な構成員を含む社会へと変貌しつつある中で、社会保障サービスの平等原則から個々のニーズに対応しなければならない状況に直面している、という点。

次に、政府が以前として大きな役割を持つ介護事業に関して、「高齢移民」というカテゴリーは廃止したほうが良いんじゃない、という提案。結局、各人のニーズに対応しきれないんだから、新しい枠組みを考え直そう、更に言えばこれまでのカテゴリーは官僚や研究者、ジャーナリストが外在的に決定してきた属性にすぎず、当人たちの声をもっと重視しようぜ、っていうヨンソン博士お気まりの指摘。

 

終わり

万事塞翁が馬、って考えると人はヤル気になる!って研究

英語にはEvery cloud has a silver liningっていう諺があって、「どんなつらい経験をしても、いつかは良い時が来るんだから、絶望してはいけない」ってな具合の意味なんですが、この諺を信じてると人間はヤル気が出るってことが科学的に証明されたんでご紹介します。日本だと、万事塞翁が馬ってところでしょうか。

ちなみに諺の成り立ちは、どんな憂鬱な雲でもその端々から微かに光が漏れていて、その雲の向こう側でいつでも太陽が輝いていることが分かる、ってことらしい。雲が悪いことの象徴として扱われているのは、雲や雨ばかりで、かつそれらを文化的に好ましくないものとして扱うイギリス的なのかもしれませんねぇ。

 

さてさて、この研究は「成功するにはポジティブ思考を捨てなさい」やWOOPの法則で有名なガブリエル・エッティンゲン博士らが2014年に行ったものですねー。

 

成功するには ポジティブ思考を捨てなさい 願望を実行計画に変えるWOOPの法則

成功するには ポジティブ思考を捨てなさい 願望を実行計画に変えるWOOPの法則

 

本題とは無関係ですが、ガブリエル博士はドイツ南部エッティンゲン・スピールベルク侯爵家の御令嬢さんなんですよねー。先日同じバーヴァリア地方のミュンヘンにビール飲みに行ったんですが、 ヴィッテルスバッハ家旧庭のニュンフェンベルク城は圧巻でございました。キレイ、デカい、広いの三拍子がそろっていて、人間の身体性からして、そりゃあ周辺の人はそこに住んでる領主家を尊敬するわ、と納得したものでした。

 

余談が過ぎましたが、本題に入りましょう。

論文の題名はずばり、Holding a silver lining theory: When negative attributes heighten performance. この辺もイカしてますね、プライミング効果でしょうか。

 

最初に論文の結論を言ってしまうと、衝動的に行動してしまう傾向は高い創造性と相関がある、と信じている人は、信じていない人に比べて、努力が必要な創造的作業に長い時間集中して取り組むことが分かったということなんですね。ここで注意していただきたいのは、実際に衝動性と創造性とに相関があるかについてはまだ十分な科学的証拠がないと博士らは述べている点。あくまで、衝動性と創造性の性の相関は一般に広く信じられている者であり、そう信じている人は創造性を必要とするタスクに長く取り組む傾向があるということです。

正直、若干の肩透かし感が否めませんが、科学の研究ってのは往々にして、その辺の自己啓発書のような単純明快な結論には至らないのが常なんですね。むしろ、博士らの誠実な態度が好印象。結論の含意については、記事の最後でまとめておきますねー。

 

はてさて、当実験は4部作となっておりまして、最初から順に、

「悪い性質と良い性質は表裏一体だ(=Silver lining theory)ってどれくらいの人々がおもっているの?」

「衝動的だと診断された大学生は、衝動性と創造性には相関があると知ると、信じていない人に比べて、創造的な仕事に長く取り組むようになる?」

「大学生以外の人たちの間では、同じ現象は確認される?」

「衝動性と創造性との正の相関を信じてる人は、その相関に特に肯定的でも否定的でもない人たちよりも、創造的な仕事に長く取り組むようになるの?」

の4つの質問がテーマになっております。

 

 第一実験は、良いことと悪いことは表裏一体だという考えがどれくらい広まっているのかについての調査ですね。結論としては、ほとんどの人が悪い性質と良い性質は関連していると考えているみたいです。面白いのは、アンケート調査の母体になっているのがAmazonだという点でしょうか。やっぱり、広い顧客層を一回獲得してしまうと新企画の展開も早くなるので圧倒的有利なんでしょう。今更ですが、知名度とか顧客数って超大事。。。

 

第二実験は大学生を対象にして行われた介入実験です。介入は2種類で、合計で2×2の4つのグループに分けられることになります。

第一介入は、「あなたは衝動的だという心理分析の結果が出ました」と言われるか、「あなたは衝動的ではないという心理分析の結果が出ました」と言われるか。要するに、被験者が自分のことを衝動的だと思うか否かの介入ですね。

第二介入は、「衝動性と創造性には正の相関がある」という旨のウソの記事を読むよう指示されるか、「衝動性と創造性には全く関係がない」という旨の、これまたウソの記事を読まされるか。つまり、創造性と衝動性との相関を信じるか否かの介入ですね。

これらの後、創造性を要求されるタスクを4グループすべての学生に課すわけです。具体的には、釘一本を与えられて、可能な限り多くの使い方を考えろ、と言われるわけです。

その結果、4グループのうち、衝動的だと診断され、かつ衝動性と創造性には相関があるという記事を読んだグループが最も成績が良かったんです。一方で、一番成績が悪かったのは、衝動的でないと診断され、かつ衝動性と創造性には相関があるという記事を読んだグループでした。単なる思い込みが諸刃の剣になるってのは、何とも怖い話ですね。。。

 

第三、第四実験は第二実験の成果の確認のためのだとお考え下さい。かいつまんでしまうと、インターネット調査で行った第三実験、「衝動性と創造性には一切関係がない」という記事の代わりに全く無関係な記事を読ませた第四実験共に、衝動性と創造性との関連があると思い、かつ自分が衝動的だと診断された人は、創造性を試されるタスクに粘り強く取り組み、かついい成績を収めたわけです。いやー、たかが思い込みと侮れませんな。

 

 

 ってなわけで、以上みてきたわけなんですが、悪いことと良いこととは隣り合わせって考え方は、色々なものごとに適用しやすい分、色々な含意がありそうですね。

 

まず、悩んでる人にアドバイスをするときには、この研究の成果は非常に心強いんじゃないでしょうか。悪いことの良い側面に気づくことで、人はその良い側面を伸ばそうと頑張れるわけですからねー。ただ、直接この研究の結果を教えてしまうと、相手が空しさを覚えるかもしれないので、取扱注意ですが笑

高齢社会学が好きで勉強してると、畢竟、教育や社会支援事業についても触れる機会が多いんですが、どんな分野でも悩んでる人にアドバイスするって行為は重要な役割の一つなわけで。悩みに対してのアドバイスって色々な種類があるんですが、この研究をふまえると、悩みの種になっていることを直接解釈しなおすことは科学的にも有効かもしれませんね。例えば、僕は高校二年生の秋の時点で全国センター模試で偏差値28.3(親に爆笑されたのは良い思い出)をたたき出すぐらい勉強できない君だったんですが、「成績がめちゃ悪い」=「これからは前にいる人を追い抜くだけ」って解釈しなおしたら自分の状況がすごく恵まれたものに思えたんでございます。その結果、勉強が楽しくなり、幸運と我がご家族のおかげで現役文一合格できたわけで、僕の経験からしても嘘じゃないかと笑

ただ、注意しなきゃいけないことが一つ。

前述の通り、筆者のエッティンゲン博士は「ポジティブ思考は目標達成に有害だよ!」という論を唱えている方でありまして、具体的に言えば、「自分が目標をかなえた姿を想像しよう」みたいなポジティブ思考は人のやる気を奪うことが分かっているんですね。なぜかというと、博士の解釈に依れば、実際に達成したことを創造すると、実際に目標を達成したときと同様の反応が脳内で起きてしまい、目標達成のためにもっと努力せな!という気持ちにならない、ということなんですね。世に言う「引き寄せの法則」は、科学的統計上は、無効なんですね。

今回の実験に即して言うと、良いことと悪いことは表裏一体だと、自分で思うにしても、他人にアドバイスするにしても、「自分の良い側面に気づくこと」は必ずしも目標達成や問題解決と同じ意味ではなく、それに基づいて、その後の努力が大事だと意識することが必要でしょう。

具体例を言えば、自分の悪い性質の良い側面に気づくことは、プログラマーになりたい人が、自分の家にある旧式だと思っていたパソコンが実は最新式の性能のいいパソコンだったと気づくことだと言い換えられるわけです。これは、その人が非常にいいスタートラインに立ったことは意味していますが、これだけで彼/彼女が優秀なプログラマーになったとは言えないわけです。

自分の精神的な悩みを解決するにしても、人間の気持ちは脳内物質のバランスと非常に強い関係があり、かつ脳の構造は少しずつアナログ的にしか変化しないので、根気強く対処していくしかないんですよね。

 

終わり。

社会問題批評の枠組みのお話

日本ではいじめや汚職なんて社会問題は日々のニュースの大部を占めているわけですが、お国が変わっても、同じようなことは言えるようで。

 

今回取り上げる論文は、スウェーデン国内の介護施設におけるスキャンダルと、それについての議論の前提についての小論です。以前紹介したAgeism批判論文の筆者のうちの一人、スウェーデン、ルンド大学ヨンソン博士の寄稿ですね。

 

naoshiaut.hatenablog.com

 

日本でも高齢化に伴って高齢者介護施設での暴力事件やその他問題は大々的に取り上げられることも多くなってきましたが、ところ変わってスウェーデンでも介護施設の民営化が進んでいたり、元々高齢化率の高い国であったりと高齢者介護への関心は高いんです。

いったん問題が起きると様々な形で報道、原因追及が始まるわけですが、それらの中での問題の理解の仕方には幾つかの類型があって、しかもその理解の仕方は高齢者の役割を過小評価しすぎなんじゃないの?という問題意識が出発点です。博士はそこから介護施設での問題を批評する際の代表的な3つの枠組みを紹介しつつ、それらが高齢者を脆弱で無力な被害者としか扱っていない点を指摘して、代わりに高齢者をキーパーソンとして捉えなおす新枠組みを紹介する、という流れになっています。

 

博士は、1990年から2013年にかけてスウェーデン国内で発行された新聞とテレビ番組、ならびにネット上の議論等を分析し、それらを類型化していく中で全体を3つのグループに分けていきます。余談ですけども、こうしたメディアを分母にした類型研究って多かれ少なかれ認知バイアスに引っ張られやすいのでこれまで敬遠してたんですが、どうやら特別な方法論があるようなので、これも後日ご紹介できればいいかなと思っております。

さて、分析の結果、博士は次のような類型を提唱しています。①「職員は加害者?それとも加害者?」タイプ、②「民営化(=利潤追求)は諸悪の根源」タイプ、そして③ポピュリストタイプ。以下、スウェーデンの介護事情を概観してから、各類型をザックリ説明していきますー。

 

大前提として、スウェーデンでは戦後長らく介護事業のほとんどは政府によって運営されてきました。「高福祉高負担」「北欧モデル」なんていう巷のイメージと合致するんじゃないでしょうか。

ところが、1990年代初頭、冷戦の終結など政治上、経済上の混乱の煽りを受けて、一時的にスウェーデン経済は深刻な不況に陥ります。加えて、新自由主義の経済学派が世界を席巻していた中、赤字の膨れ上がった政府は、それまでの方向を転換、政府事業の一部の見直しを大規模に行ったわけです。その中に介護事業も含まれていて、介護事業の運営主は中央政府から地方公共団体に移り変わり、更に営利企業の参入も大幅に規制緩和されたわけです。介護事業の一部民営化ですね。

合わせて、スウェーデンの介護事業の特色の一つは、在宅介護の重視ですね。これは1950年代以来の通奏低音で、特に近年、施設入所に関しては基準が引き上げられているというような状況です。

 

上記のような状況をふまえて、先ほどから繰り返し言及している、議論の3枠組みを紹介していきます。ここまで長かった笑

 

(1)「職員は加害者?それとも加害者?」タイプ

この類型は、言い換えると、問題が発生したときにスタッフと施設(あるいは、運営企業)のどっちが悪いのか、という点に注目する見方です。児童虐待と同様、高齢者虐待は事件後に強烈な反感を買うため、地理的にも因果関係的にも近いスタッフがスケープゴート(身代わり)として原因とされやすい。反対に、劣悪な労働環境がスタッフを非行に走らせたという施設側を批判する意見も提出されやすいので、この類型が発生するんだ、というのが博士の見方。

この枠組みの前提には、入居者も職員も同じく施設の環境に影響されるんだ、という利益の共通性が想定されているわけです。この考え方の利点は、得てして「介護する側VSされる側」という構図になりやすい中で、その溝を取っ払って介護者と被介護者との一体性を強調する点にあります。しかし、一方で、両者の利益対立を見えにくくし、かつ利用者の細かい要望を見過ごす原因になるんじゃないの、という点も博士は指摘しているわけです。

こうした批判は、介護職員の地位と労働環境を改善することが解決策として重要で、政府へのさらなる資源投入、職能団体の支援を要求する方向へ向かいがち。

日本でも2016年に介護施設職員が入居者3名を突き落として殺害する事件がありました(川崎老人ホーム連続殺人事件)が、その際の報道の多くは加害者の異常性か、労働環境の劣悪さに終始していたように記憶してます。その他、日本での報道はこの類型が多いんじゃないでしょうか。

 

(2)「民営化(=利潤追求)は諸悪の根源」タイプ

要するに、営利追求企業は利益のためなら従業員の賃金カットでも施設投資費の削減でも何でもするから、そのせいで介護施設の環境が悪化しているだ、という見方ですね。民営化には不可避的な論点。また、報道上、「悪役」としての私的企業像が演出しやすいため、メディア受けが良い点も挙げられています。

この種のステレオタイプに依拠した批判にありがちな問題点として、実際のところ公的機関に比べて営利企業の運営する施設のクオリティが低いのか、或いはコストカットに伴うサービスの質低下が実際に発生していたのか、という検証が十分になされないままに議論だけが進んでいってしまうということが示唆されてます。

批判者の提唱する解決策は2つの類型に分別されます。第一に、民営化を抑圧するような方向性ですね。そもそも民営化したから問題が発生したわけで、さらなる民営化の進行はおろか、既に民営化された企業の再公有化も視野に入れるべきだ、と主張するわけです。第二に、私的営利企業に対して、政府はさらに規制をかけるべきだという方向性。政府が厳重に基準を管理することで、サービスの質は高水準で維持されるんだと主張するわけです。ただ、政府の規制があまりにも現実からかけ離れた非効率的なモノだったり、サービスの経済性が犠牲になったりと様々なマイナス面も考えられるわけですが。

 

(3)ポピュリストタイプ。

ポピュリズムって近年最大の流行語の一つなんじゃないかと思うんですが、政治学徒としていまいちピンと来ないんですよねー。定義がブレブレな感じ。

さて、ヨンソン博士の言うところのポピュリスト的主張ってのは、介護施設での問題を社会構造全体から演繹しよう、という主張ですね。具体的に言うと、「移民/難民」「ホームレス」「特権階級」の3者が不当に社会的資源を乱用していて、この社会の礎を築き上げ、手厚いサービスを受けるべき高齢者に十分な資本が割り当てられていないぞ!という主張だそう。「我らVS彼ら(Us VS Them)」の構造ですね。意外と知られていないんですが、スウェーデンは戦後長らく大規模な移民を受け入れていて、全人口の15%超が海外で生まれたか、両親が外国出身なんて統計があるぐらい移民大国なんです。確かに街を歩いていると、東アジア系こそ少ないものの、金髪碧眼に混じって、黒髪色黒の中東系、南ヨーロッパ系の方をよく見かけます。

ヨンソン博士曰く、この主張はそこまで広い支持を受けているわけでないということなんですが、執筆当時(2016年)に比べて現在の状況は様変わりしていて、本文中でも触れられているスウェーデン民主党(Sverigedemokraterna, 通称SD)というポピュリスト政党の躍進は今年の総選挙で最大の争点になっているわけで、スウェーデン国内の変化を表してますねー。

 

はてさて、上記の3類型に対して、ヨンソン博士はAnti-Ageismという枠組みの導入を提唱されています。

つまるところ、介護施設における問題の解決にあたり、利用者、すなわち高齢者の役割をもっと重視しようぜ、という考え方ですね。前々回の記事と同様、障碍者福祉の分野で発達した、サービス利用者の社会的権利を拡充することで、サービス利用者=弱者という構図を変えようという試みなわけです。Nothing about us without usってことですな。

博士は、この新しい枠組みは従来の枠組みで語られていた問題に新風を起こしうる、と主張しています。具体的に言えば、サービス利用者として高齢者の役割を再評価することで、これまで政府や研究者が決めていた「いいサービス」の基準とは違う、利用者目線で決められたサービスの基準を作れるんではないかと。これによって、(1)で取りざたされていた施設環境の向上も、(2)で批判されていた経済的効率主義も、(3)の中心課題だった「本来ならサービスを受けるべき高齢者」像における「理想的サービス」の定義でも、新しい見方が可能になるという話なんですね。確かに、これまで何故か、サービスの基準を定めるときに、本来は最も重要なはずのサービス利用者の視点が欠けていて、官僚や研究者、企業などが間接的に基準を定めていたんですよね。不思議。

 

以上の議論は、介護施設の問題に限らず、あらゆる社会問題でも有効な認識枠組みだと思います。民営化に関して言えば、昨今水道の民営化が議論になってますが、それぞれの意見がどの基準に即していて、かつどうすれば異なる枠組みの議論を同じ俎上に乗せられるか、という点に意識していけると、もっと生産的な議論が出来るんではないでしょうか。

終わり。

三人称で負の感情が楽に和らぐよ、という脳科学研究

最近、遺伝子と脳科学と精神病理にハマっているわけなんですが、題名通り今回は人称代名詞を変えるだけで負の感情を抑えられるよ、というネイチャー論文をお送りいたします。

 

他人事なんて言葉があるように、元来、人ってのは他人には自分事ほど強い感情を持てない生き物なんでしょうが、それは脳科学的にも正しいの?というのが本研究の問題意識。

研究者らは人称代名詞の変化、つまり"I"=一人称と"それぞれの名前"=三人称とを使い分けると、同じ出来事に対しても人の感じ方は変わるんでないか、と考えたわけです。そこで、彼らは二つの仮説を立てたんですが、そもそも一口に感情といっても、脳科学的には二つの波形に分けられています。第一波形は、LPP(the late positive potential)といって、感情の発生を表すもんです。脳の偏桃体という部位が関わっているとされています。第二波形は、SPN(the stimulus preceding negativity)といって、意識的に感情をコントロールしようとすると確認される波形ですね。前頭前皮質内側部(Medial Prefrontal Cortex)という、前頭葉の一部が関係していると言われています。

これらを前提にして、科学者らの仮説は以下の通り。

第一に、三人称を使用すると、負の感情を呼び起こす物事に対するLPPの強さが抑えられる。

第二に、三人称を使用しても、SPNの強さは一人称を用いた時と変わらない。

要約すると、三人称を使うと、一人称時と比べて、楽に感情をコントロールできるよ、ということですね。例えていうと、単純な計算の試験で、試験時間はそのまま、試験の問題量が少なくなれば、必然的に楽になるって感じでしょうか。

 

上記の仮説を検証するために2つの実験が行われたんですが、過程をとばしてしまうと、仮説を裏付けるような結果が出たわけです。詳細については、統計学的にも脳科学的にも説明に必要な知識が僕に無いので、ご関心の方は上のリンクから原典をご参照ください笑

 

ここで面白いのが、嫌な感情を呼び起こすような写真を見た時に三人称を使うように指示されるというような単純な介入だけでなく、自分の過去の嫌な記憶を振り返るときも三人称を使うことで負の感情を抑えられるということが分かったということですね。科学実験ってのは介入が限定的すぎて現実にはいまいち適応しずらいことが多々あるんですが、この実験の成果は今すぐにでも実生活に生かせそう。

 

この実験を受けての個人的感想は以下のよう。

先ず何より、人称の変更という言語的介入で実際の脳内の化学反応が変わる事が確認されたわけですが、これがどのような含意を持つのか、更に詳しく調べてみたいですね。例えば、実験では恐らく英語が使われたと思うんですが、これが日本語のように明確に人称代名詞をせずとも文章を構築できる言語だった場合にも、同様の効果を得られるのか、とか。或いは、非バイリンガルが外国語で思考した場合には、母国語と同様の効果が発生するのか、とか。はたまた、「こころ」或いは、「意識」が脳とどのような関係にあるのか、という問題は、心理学、脳科学、哲学上の大問題なわけですが、「言語」という抽象的意味体系が脳に影響を与えることを証明した点で、こうした研究の今後の貢献に期待したいですねー。

続いて、優れて脳科学的な疑問なんですが、感情と結びつく脳内の反応は一つの種類しかないの?と思ったわけです。先ほど計算問題の比喩を使いましたが、例えば、計算問題の量と試験時間については分かっているとして、計算問題の質=難しさは常に一定なのか、という疑問ですね。今回の実験では、不愉快な写真を見た時と、自分の過去の嫌な記憶を思い出した時の反応とを一緒くたにしてますが、どちらも同じ反応なんかな、ってのは素人として疑問なわけで。

最後に、自分の最大関心事である高齢者支援との関係で、こうした脳科学に基づいたライフハックは心強い下支えになるわけです。概ねすべての支援事業、或いは政策は、何らかの形での既存の社会関係への介入を意味していると思うんですが、複雑な人間というシステムに立ち向かうに際して、上記のような認知科学の裏付けのある知識は、統計学的、状況的な制約はあるにせよ、最も重要な道具のうちの一つになるんですね。

もっとも、知識の価値とは、それが正しいかではなく、それが人間の魂を向上させるか否かである、というようなことをニーチェが言っていた通り、知識の正しさ云々だけでなく、それを実際の社会で試すことも怠らずに行きたいですねー

終わり

 

「高齢化を考える」の3様式

Contemporary Perspectives om Ageism(2018)の第22章Ageism and the Rights of Older People(Taghizadeh Larsson, and Jönson, 2018)という小論から。

 

高齢者の定年後を専門に勉強してると、地味地味と周囲から言われてしまうわけなんですが、意外にもダイナミックな論争があって結構面白いんですよね。

今回読んだ記事は、高齢化に関する主要な2つの見方と、それに対する反論としての者ら独自の新見解についてなんですが、これがかなり説明が明快で初学者にはもってこいだったわけで。

 

「主要な2つの見方ってなんですの?そもそも知らんわ」と思う方も多いでしょうが、学術的に言うからややこしいだけで、まぁ言われてみればそんなもんか、という感じなので、肩肘張らずにお読みいただければと思います。

 

そもそもの大前提として、筆者らはAgeismという高齢化観を議論のとっかかりにしているわけです。このAgeism(アメリカではAgism)というのは、Oxford Dictionaryによると“Prejudice or discrimination on the grounds of a person's age”ということで、より具体的かつ噛み砕いていえば、年取ると人って心身ともに衰えるよねという考え方、或いはその考えに基づく行動、ということになります。これは、恐らくほとんどの人が自然に抱く考え方ではないかな、と思います。ちなみに、日本語では「偏見」とか「差別」などと訳されてごちゃごちゃになっているケースが多いんですが、社会心理学上ではPrejudiceとDiscriminationというのは明確に区別された概念であって、前者は特定の社会集団に対する考え方、後者はそうした考えに基づく行動やシステム、という風に腑分けされてます。例を挙げると、東大生って勉強しかしてこなかった変な人たちと心の中で思うことはPrejudiceで、実際に東大生に向かってそう言ったり、東大生をいじる番組を作ることがDiscriminationという感じですね笑。

 

さて、前置きが長くなりましたが、このAgeismに対しては、従来から2つの見解が提出されています。

第一は、Upgrading Approachというもんで、ザックリいうと「みんなが思っている以上に、高齢者って元気で仕事もできる人たちだし、時代ごとにどんどん元気になってるんだぜ!」という立場です。ご存知の方も多いかもしれませんが、良く引用される調査で、1992年から2002年の間に高齢者の歩行スピードが上がっていて高齢者は平均11歳分も若返っている!なんてのもありますが(鈴木隆雄他「日本人高齢者における身体機能の縦断的・横断的変化に関する研究」第53巻第4号「厚生の指標」2006年4月)、こうした見方は昨今の日本でもよく見かけますね。高齢者へのケアは、心身の虚弱化へのサポートだけではなくて、就労支援などより積極的な側面にも及ぶべきだ、という視点の転換がこの立場の主な貢献でしょう。

続いて、第二の見方は、age irrelevance approachという立場で、「年代という考え方自体が高齢者への年齢差別を正当化している元凶だから、年代ではなく各人の能力に焦点を当てよう」という主張です。日本では少しずつ定年制それ自体がやり玉にあがりつつありますが、その中で年齢に関係なく能力重視の採用基準を確立しようとする立場はこの議論の中に組み込まれうるかもしれません。言うまでもなく、能力に応じたニーズへの対応をより普遍化している点で、この立場は更に革新的と言えます。

 

これら2つの見方に対して、筆者らは「これはAbleism、つまり健常者による身障者差別につながる」として批判を投げかけています。言い換えれば、上記2つの見方は、「高齢化は不可避に人を心身ともに虚弱にする」という従来通りのAgeismへのアンチテーゼとしては有意義だけれども、一方で、能力主義を主張することで、障害を抱えた高齢者など年齢だけでなく能力の面でも「基準」に満たない人々への差別を正当化していると批判しているわけです。年齢でも能力でも、基準がどちらか一辺倒になってしまうと問題があるという主張ですねー。

 

そこで、筆者らはEqual Right System/Framework という第三の見方を提出しています。大まかに説明すると、障碍のある高齢者のような、従来のシステムでは十分に保護されてこなかった人々を救うには、年齢ごとの区別を維持しつつも、各年代の健康で活動的な人々を基準にして、かつ全ての人がそうした基準となる人々と同様の活動を行う権利を持っているという考え方と、その実現のためのサポートシステムが必要だという主張です。筆者らは元々、障碍者支援を専門にしている研究者で、この主張の背後には若年障碍者支援に関する北欧モデルが念頭にあります。若年障碍者支援に関する北欧モデルとは、すべての障碍者は同年代の健常者と同等かそれに近いサービスや仕事、環境を享受できるべきであり、社会はそのためにインフラを提供する義務があるという考え方とそれに基づく政策のことを指します。筆者らは、こうした態度を障害を抱えた高齢者にも援用すべき、と言っているわけですね。ここでのポイントは、障碍者支援においては、障碍のある方の比較対象は、同じような障害を持つ方ではなく、同年代の健常者であるべきだということです。実際、論文中では、心身に重大な障碍を持つ高齢者の方でも、適切なケアを受けることで、健常者に匹敵しうる充実した生活と社会活動を送ることが出来るという実例が紹介されています。

 

概括すると、筆者らの提唱するEqual Right System/Frameworkは、従来の枠組みから零れ落ちた人々を如何にして救うかという二次的な文脈での議論であり、Upgrading ApproachやAge Irrelevance Approachのような高齢者支援の枠組みの下地になる議論とは一線を画しますが、それでも幾つか重要な示唆を含んでいると考えます。

第一に、社会的弱者支援の文脈における比較対象集団の重要性を指摘した点にあるでしょう。筆者らは本論で、若年障碍者に対するケアが高齢障碍者に適応されてこなかったことの原因として、高齢者という集団そのものが心身の衰弱を前提とする「期待されていない」社会集団であり、心身の障碍による悪影響が過小評価され、かつ高齢者自身が自分の能力に対して悲観的であるため、高齢障碍者のなかで健常者と同様の基準を求める意識が構造的に弱められていたことを指摘しています。このことは、障碍者問題に限らず、性的マイノリティや貧困問題等でも、参照集団選択の問題として適応されうるでしょう。

第二に、これは筆者らが論文中で意図したことではないでしょうが、高齢者支援や高齢者政策においては二つの評価軸が存在している点です。つまり、高齢者という社会集団に政策その他で介入するにあたり、「社会全体の利益を増大させる」あるいは、「高齢者の自己実現を支援する」のいずれを重視するかという問題です。もちろん、双方排他的ではないので、各種の介入において両方の側面があることは事実ですが、高齢者支援の議論においてどちらの尺度がより優先されているかは不毛な議論を避けるうえで有用な視点かと思います。

 

と、まぁ、後半に進むにつれて、文章がわかりにくくなってしまいましたが、皆様がなにかしら得るものがあれば幸いです。

お笑い芸人と精神病

芸人中でも、「この人、なんか変わってるな」と感じる人ってのは結構いるもんで。僕は個人的にダウンタウンの松ちゃんと、さんまさんが大好きなんですが、お二人とも人格的な暗さが垣間見えるところが面白いんですよ。

 

これを裏付けるような研究が、オックスフォード大学の研究者らから出てきました。この研究では、コメディアンとお笑い芸人との間で、どれくらい統合失調症躁鬱病など精神病の気質があるかということを調べています。Oxford-Liverpool Inventory of Feelings and Experience (O-LIFE)という精神病鑑定用の基準が使用されてます。これって自分でできないんですかね。

 

元々、精神病気質が強いほど創造性が高まるという研究はたくさんあったんですが、この研究者らは「仕事で新奇性を要求されるコメディアンの間でも精神病気質が高いんじゃないか?」と仮説を立てたわけです。この仮説の前提になっているのは、Incongruity Theoryというもんで、ザックリいうと「ユーモアってのは、かけ離れた概念とか状況を、予想だにしない方法でかけ合わせる能力のこと」という理論みたいです。古くプラトンアリストテレスの時代から言われてるみたいですね。

 

オンライン上で523人(うち男性404人女性119人)のコメディアン、364人(うち男性153人女性211人)の役者に上記のアンケートを行いました。

計測されるスケール4種類は以下のような感じ。

(a) Unusual Experiences=魔法とか超常現象を信じたり、超自然的なことを感じたりしやすさ

(b) Cognitive Disorganisation=気の散りやすさ

(c) Introvertive Anhedonia=社会的、物質的楽しさの感じにくさ

(d) Impulsive Non-conformity=衝動的行動のしやすさ

その結果、コメディアンは四つすべてのスケールで、役者は三つのスケールで平均値を上回る精神病質を記録したそう。コメディアンと役者との差が顕著に出たのが(a)のスケールで、研究者らはコメディアンと役者との観客に対する関わり方の違いに関係してるんじゃないかと指摘してます。その他三つのスケールについては、概ね同じ傾向を示している一方、コメディアンの方がより精神病的傾向が強いとの結果になりました。

 

良いサイコパスと悪いサイコパスなんて研究は最近ぼちぼち見かけますが、統合失調症躁鬱病なんて別の精神病傾向もプラスの側面があるというのが興味深いですねー。サイコパスの研究と同様に、統合失調症的、或いは躁鬱病的気質を現実で利用する手段の研究が進むことに期待(笑)。

 

それと、個人的に面白かったのは、ユーモアの原理と統合失調症の症状との符号でしょうか。統合失調症に関する認知科学の分野では過包摂理論(Over-Inclusion)というものが提唱されていて、ザックリいうと「意識のフィルターが壊れてしまい、関係のない事象が波のように意識の中に入ってきてしまう」という症状を説明してるんですね。例えば、リンゴを見ると「美味しそう/健康的だな」→「食べよう」→「皮剥くの面倒だな」みたいな感じで一つか二つの情報から直線的に思考していくんですが、統合失調症の人は「美味しそうだな/健康的だな」と思うと同時に「赤いな」→「血」とか、「リンゴ」→「椎名林檎って歌手がいたな」→「毒についての歌ってたな」とか様々な思考が混入して、結果「誰かがこのリンゴに毒を入れて、これを食べたら血を吐いて死んでしまう!」というような考えに陥ってしまう可能性があるんです。この症状を前述のIncongruity Theoryと考え合わせると、統合失調症の症状のある人は突飛なユーモアを思いつきやすいかもしれないということになるわけですね。

まだまだ認知科学や異常心理学は聞きかじりなんですが、一般的にマイナスに解釈される事柄が一機進展、肯定的に解釈されるってのはやはりドーパミン放出的なので、更に突き詰めていきたいですね。

「日本人論」再考 ~「近代化」不安克服の精神史的状況~

留学先で、「日本」というカテゴリーは、主観的にも客観的にも僕を規定する最大の要素の一つになっておりまして、色々考えるところ。今回は、以前直接お会いした、船曳先生の著作をざっくりまとめておきましたんで、ご参照のほど。

 

「日本人論」再考 (講談社学術文庫)

「日本人論」再考 (講談社学術文庫)

 

 

 

本書を僕なりに総括するならば、「明治以降の日本が「近代化」する中で浮き沈みを経験し、「近代国家」日本としてのアイデンティティを再検討する必要を感じた時に、日本人論は唱えられる」という筆者の仮説のもと、明治以降から平成初期にかけての日本人論の幾つかをテーマごとに拾い上げて概説し、明治維新大東亜戦争期と、敗戦ー現在間との間に「近代国家」日本における人々のアイデンティティの推移の類似性の相似を発見する、という筋書きになります。以下、各章ごとの簡単な要約を載せておきます。

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