さしのみ

東大で法律学んでる傍ら、高齢化とその他諸々の本、論文の要約レビュー等をやってます。感想・ご意見等、時間の限り書いて寄越してください。

過去の囚人か、それとも未来の開拓者か。

 

 不肖ながら、二十余年も生きていると、自分でも信じられないような不義理や無礼を働いてしまうことがある。失敗といってもいろいろで、自分の為そうと思ったことを途中で止めてしまったり、或いは予想外の結果を招いてしまったりと、その裾野は広い。しかし、数多ある失敗の中でも、自分の信義に反するような事態を招いてしまったときほど、後味の悪いものは無い。

 中学校一年の時分に、後に東日本大震災と呼ばれる、大災害を経験した。幸い、僕の生活拠点は被害の少ない東京であり、東北に住む近親者に目立った被害もなかった。当時、部活と遊びと学校行事に魂を捧げていた少年には、震災という出来事のリアリティは感じられず、放蕩に明け暮れる日々であった。しかし、阪神淡路、地下鉄サリンを経験せず、9.11の記憶も朧げな若者にとって、3.11は人生で初めての社会的危機として鮮烈な印象を持ち、日々の生活の端々にその存在を意識していたように思う。その日々見切れる存在に導かれたのか、高校二年の夏、自分と他者との関わりに疲れ果て、無為の只中に在ったとき、僕は初めて被災地を訪れた。

 小学校2年の時に抱いた夢を達成し、現実に打ちのめされた僕にとって、17歳から今日至るまでの日々は、ぽっかりと空いた内側の空洞を満たしてくれるものを探す、そぞろな道程であった。17歳で初めて訪れて以来、毎年何かに導かれるように僕は東北の地を訪ねて来た。そこには、復興の姿に新しい希望を無意識に見出す心持も、非「被災者」として何か学ばねばならないという義務感のような心持もあった。いずれにせよ、一度死んだ僕の人生にとって、東北の地は、常に傍らにあり、また、孑孑のようにふらふらとしている僕を指導してくれる地であった。

 そんな中、昨年の6月に宮城県某所の或る団体を訪問させていただいた。被災直後から、現地の人々を励まし、少しでも将来へ希望を持ってもらうために、地元の産品を使ってアクセサリを創ることを事業化した団体だ。僕の大学の先輩が参画していた縁で、団体の代表者に方々につないでもらい、忙しい中を縫って時間を割いていただいた。 多くのモノを学ばせていただいた。大学で政治学・法学を学ぶものとして、人と人との直接的なつながりが極限状態にある方々にとって大切か、という観点の抜け落ちを痛感させられた、と思っていた。

 ところが、つい先日、その先輩から連絡が入った。僕が先輩に現地を報告したことを報告していないどころか、お世話になった先方への御礼のメールもしていないことを指摘する内容だった。人間味の厚い彼からの連絡には、冷たく沈み込むような呆れ返った怒りが滲んでいた。慌てて送った報告のメールとお礼のメールとに返信は無かった。

 多くの場合、人は喉元過ぎれば熱さを忘れるものなのだろう。ただ、その失敗が僕の人格を脅かすものの場合、失敗は喉から臓腑へと落ち込んでいくにつれ、ますます僕に与える苦痛の度合いを増していく。それは対外的に信頼というものは修復が困難であるだけでなく、むしろ、その失敗によって自分の人格の浅薄さが白日の下に晒され、自分のつまらない自尊心さえも存立を許されなくなるからである。それまでの自分のあらゆる美点が灰燼に帰すからである。

 

 そう思うと、過去の積み重ねとして自分を捉えていることに気が付く。過去から自分を定義することに、論理的必然は無い。

 どうしてだろうと考えると、一つ思い至るのは、他人は過去の積み重ねからでしか僕を判断できないからだろうということ。学校の成績も、評判も、全てこれまでの積み重ねと、その延長線上でしか判断できない。

 ただ、その考えを自分に適応する必要も、また無い。自分の中に日々生起する様々な思考と、そこに由来する可能性を考えれば、自分の未来でもってして自分も定義しても罰はあたらないだろう。

 もちろん、これを自分の失敗を糊塗する形で場当たり的に使ってはならないだろうけれど、過去の囚人ではなく、未来の開拓者として自分に期待をかけてやるのも、良いのかもしれない。