さしのみ

東大で法律学んでる傍ら、高齢化とその他諸々の本、論文の要約レビュー等をやってます。感想・ご意見等、時間の限り書いて寄越してください。

海風の気風

 前川清さんの名曲「長崎は今日も雨だった」を聴くと、ふいに、修学旅行で訪れた長崎の港町の白と青入り混じる町並みが思い出される。山と海に囲まれた程よい雑踏は、都会らしい卑屈さとは無縁の不思議な清々しさをたたえていた。雨続きの長崎をうたった名曲に雨の陰鬱さを感じないのは、その長崎という風土のなせる業なのかもしれない。

 

 所変わって、僕の滞在するルンドは今日も雨模様である。氷点下を下回る年初の寒さこそないけれど、気温一桁台前半のそぼ降る雨は、どこか開き直ったかのような不機嫌さであった。僕は中学のころ、雨の下で傘をさすことは阿保らしさを結論付け、以来、濡れては困るものを持っていなければ傘はささないと決めていた。ときどき、そんな自分のあほらしさに感心するが、今日も、寮を出て雨の程度を確認すると、僕は、ぐっと決意を決め、帽子を目深にかぶりダウンコートの襟をそばだてて、決然と授業へ向かったのである。すれ違う人々も、どこか、いつもより先を急いでいるように見えた。

 

 スウェーデン語の授業を終えると時々、ああどうして僕の世界はヨーロッパ中心に動いているんだ、とやるせなくなる。ひょいひょいと言語の壁を越えていく欧州系の生徒をよそに、アジア出身の学生は言葉を覚えるだけで呻吟している。普段はそこに粘り強さの矜持を見出すのだけれど、人は常に気高く在れるものではないのだろう。

 離れた場所に自転車を止めていた友人に別れを告げ、帰途につくと、同じ授業を受けているイタリア人の学生と一緒になった。別段会話をするわけでもなく、窓の外に見えた雨模様に僕は身を引き締めた。

 ———ああ、寒い嫌な雨だな。

 言語学棟を出ると、そのイタリア人の学生が僕のほうに向きなおり、何かを喋っていることに気が付いた。僕はヘッドホンを外し、彼に聞き直すと、彼はこういった。

 ———Such a nice weather, tack för Sverige!

 卑屈さのかけらもない笑顔だった。僕が返す言葉を探していると、彼は次の授業で会おうと言い残し、さっさと自分の自転車を取りに駆け出していた。彼は確か、イタリアの南方の聞いたことのない町の出身だった。彼は一面に開けた地中海の景色と、生まれ育った港町を誇りに思い、名前も知らない東洋人に旅行しに来るよう、人懐っこく勧めていた。闇に消えていく彼の後姿を見ながら、彼のまだるっこしいRの巻き舌が何とも爽快に反響していた。