さしのみ

東大で法律学んでる傍ら、高齢化とその他諸々の本、論文の要約レビュー等をやってます。感想・ご意見等、時間の限り書いて寄越してください。

「高齢化を考える」の3様式

Contemporary Perspectives om Ageism(2018)の第22章Ageism and the Rights of Older People(Taghizadeh Larsson, and Jönson, 2018)という小論から。

 

高齢者の定年後を専門に勉強してると、地味地味と周囲から言われてしまうわけなんですが、意外にもダイナミックな論争があって結構面白いんですよね。

今回読んだ記事は、高齢化に関する主要な2つの見方と、それに対する反論としての者ら独自の新見解についてなんですが、これがかなり説明が明快で初学者にはもってこいだったわけで。

 

「主要な2つの見方ってなんですの?そもそも知らんわ」と思う方も多いでしょうが、学術的に言うからややこしいだけで、まぁ言われてみればそんなもんか、という感じなので、肩肘張らずにお読みいただければと思います。

 

そもそもの大前提として、筆者らはAgeismという高齢化観を議論のとっかかりにしているわけです。このAgeism(アメリカではAgism)というのは、Oxford Dictionaryによると“Prejudice or discrimination on the grounds of a person's age”ということで、より具体的かつ噛み砕いていえば、年取ると人って心身ともに衰えるよねという考え方、或いはその考えに基づく行動、ということになります。これは、恐らくほとんどの人が自然に抱く考え方ではないかな、と思います。ちなみに、日本語では「偏見」とか「差別」などと訳されてごちゃごちゃになっているケースが多いんですが、社会心理学上ではPrejudiceとDiscriminationというのは明確に区別された概念であって、前者は特定の社会集団に対する考え方、後者はそうした考えに基づく行動やシステム、という風に腑分けされてます。例を挙げると、東大生って勉強しかしてこなかった変な人たちと心の中で思うことはPrejudiceで、実際に東大生に向かってそう言ったり、東大生をいじる番組を作ることがDiscriminationという感じですね笑。

 

さて、前置きが長くなりましたが、このAgeismに対しては、従来から2つの見解が提出されています。

第一は、Upgrading Approachというもんで、ザックリいうと「みんなが思っている以上に、高齢者って元気で仕事もできる人たちだし、時代ごとにどんどん元気になってるんだぜ!」という立場です。ご存知の方も多いかもしれませんが、良く引用される調査で、1992年から2002年の間に高齢者の歩行スピードが上がっていて高齢者は平均11歳分も若返っている!なんてのもありますが(鈴木隆雄他「日本人高齢者における身体機能の縦断的・横断的変化に関する研究」第53巻第4号「厚生の指標」2006年4月)、こうした見方は昨今の日本でもよく見かけますね。高齢者へのケアは、心身の虚弱化へのサポートだけではなくて、就労支援などより積極的な側面にも及ぶべきだ、という視点の転換がこの立場の主な貢献でしょう。

続いて、第二の見方は、age irrelevance approachという立場で、「年代という考え方自体が高齢者への年齢差別を正当化している元凶だから、年代ではなく各人の能力に焦点を当てよう」という主張です。日本では少しずつ定年制それ自体がやり玉にあがりつつありますが、その中で年齢に関係なく能力重視の採用基準を確立しようとする立場はこの議論の中に組み込まれうるかもしれません。言うまでもなく、能力に応じたニーズへの対応をより普遍化している点で、この立場は更に革新的と言えます。

 

これら2つの見方に対して、筆者らは「これはAbleism、つまり健常者による身障者差別につながる」として批判を投げかけています。言い換えれば、上記2つの見方は、「高齢化は不可避に人を心身ともに虚弱にする」という従来通りのAgeismへのアンチテーゼとしては有意義だけれども、一方で、能力主義を主張することで、障害を抱えた高齢者など年齢だけでなく能力の面でも「基準」に満たない人々への差別を正当化していると批判しているわけです。年齢でも能力でも、基準がどちらか一辺倒になってしまうと問題があるという主張ですねー。

 

そこで、筆者らはEqual Right System/Framework という第三の見方を提出しています。大まかに説明すると、障碍のある高齢者のような、従来のシステムでは十分に保護されてこなかった人々を救うには、年齢ごとの区別を維持しつつも、各年代の健康で活動的な人々を基準にして、かつ全ての人がそうした基準となる人々と同様の活動を行う権利を持っているという考え方と、その実現のためのサポートシステムが必要だという主張です。筆者らは元々、障碍者支援を専門にしている研究者で、この主張の背後には若年障碍者支援に関する北欧モデルが念頭にあります。若年障碍者支援に関する北欧モデルとは、すべての障碍者は同年代の健常者と同等かそれに近いサービスや仕事、環境を享受できるべきであり、社会はそのためにインフラを提供する義務があるという考え方とそれに基づく政策のことを指します。筆者らは、こうした態度を障害を抱えた高齢者にも援用すべき、と言っているわけですね。ここでのポイントは、障碍者支援においては、障碍のある方の比較対象は、同じような障害を持つ方ではなく、同年代の健常者であるべきだということです。実際、論文中では、心身に重大な障碍を持つ高齢者の方でも、適切なケアを受けることで、健常者に匹敵しうる充実した生活と社会活動を送ることが出来るという実例が紹介されています。

 

概括すると、筆者らの提唱するEqual Right System/Frameworkは、従来の枠組みから零れ落ちた人々を如何にして救うかという二次的な文脈での議論であり、Upgrading ApproachやAge Irrelevance Approachのような高齢者支援の枠組みの下地になる議論とは一線を画しますが、それでも幾つか重要な示唆を含んでいると考えます。

第一に、社会的弱者支援の文脈における比較対象集団の重要性を指摘した点にあるでしょう。筆者らは本論で、若年障碍者に対するケアが高齢障碍者に適応されてこなかったことの原因として、高齢者という集団そのものが心身の衰弱を前提とする「期待されていない」社会集団であり、心身の障碍による悪影響が過小評価され、かつ高齢者自身が自分の能力に対して悲観的であるため、高齢障碍者のなかで健常者と同様の基準を求める意識が構造的に弱められていたことを指摘しています。このことは、障碍者問題に限らず、性的マイノリティや貧困問題等でも、参照集団選択の問題として適応されうるでしょう。

第二に、これは筆者らが論文中で意図したことではないでしょうが、高齢者支援や高齢者政策においては二つの評価軸が存在している点です。つまり、高齢者という社会集団に政策その他で介入するにあたり、「社会全体の利益を増大させる」あるいは、「高齢者の自己実現を支援する」のいずれを重視するかという問題です。もちろん、双方排他的ではないので、各種の介入において両方の側面があることは事実ですが、高齢者支援の議論においてどちらの尺度がより優先されているかは不毛な議論を避けるうえで有用な視点かと思います。

 

と、まぁ、後半に進むにつれて、文章がわかりにくくなってしまいましたが、皆様がなにかしら得るものがあれば幸いです。