さしのみ

東大で法律学んでる傍ら、高齢化とその他諸々の本、論文の要約レビュー等をやってます。感想・ご意見等、時間の限り書いて寄越してください。

スウェーデンの「息苦しさ」

スウェーデン社会保障政策を勉強しておりますと、社会保障の名の通り、人々の最低限の生活ラインを保障する 意識と実際の施策の手厚さに感心させられるわけでして、Det tryggaste samhället(最も安心安全な社会、というような意味)と自国社会を形容した友人の言葉に何度も立ち返らせられる日々でございます。

 

ただ、一方で、留学開始以来、スウェーデン社会に対して「息苦しさ」のようなもの、手放しで賞賛できないわだかまりをどこかでずっと感じてきておりまして、今回の投稿はその一部を文字に落とし込む試みとなっています。

 

スウェーデンの「規範」

スウェーデンに来て驚くのが、猫も杓子もみなスウェーデン社会を礼賛していること。もちろん、昨今の移民問題や高齢化に伴う制度改変をはじめ、スウェーデン社会の細かな制度設計への不満はあるにせよ、スウェーデン国民も留学生も、みな口を揃えてスウェーデン社会の基本的方向性に賛同しているように見受けられます。メディアも市井の人々も内憂外患を嘆く社会から来た人間としては、何とも奇妙な環境に来たという実感を禁じえません。

さて、僕の周りの人々のスウェーデン礼賛の共通項は何かというと、「個人の解放」「平等」。

「個人の解放」というのは、人々が抱える様々な「桎梏」を解消し、人々が同じ状況で生きていける状況を創ろうとする方向性。例えば、スウェーデンでは、ほとんどの文化圏と同様に、伝統的に女性が育児家事を担当することが当然とされていたのですが、主に二次大戦後の社会改革で、公的サービスの拡大によって各家庭が私的に負担する家事育児の量を減らし、かつ男性と女性が同等の家事育児負担量になるような制度設計がなされた結果、世に名高い男女平等社会を作り上げたとされます。女性解放以外にも、身体・精神上の障害を認定された人々が健常者と同等の生活を送れるよう、手厚い公的サービスが保障されています。性的マイノリティに寛容とされていることも、性的嗜好・自認の如何で個人の可能性が制限されないように、という解放性・標準化の現れの一つと言えましょう。

さて、「平等」といったのは、すべての人間に上記の救済措置が取られる指向性のことでして、スウェーデン国民のみならず、紛争で故郷を追われた人々に対して適用されれば寛大な難民受け入れ政策につながります。長年、労働力不足解消のために南欧・東欧からの移民受け入れを積極的に行ってきたスウェーデンですが、国内での労働力不足が顕在化していない現在においては人道的理念が移民政策の主要要因とされます。また、人によって、平等性の適用は人間にとどまらず、みんな生きているんだ友達なんだ的メンタリティのもと、動物の肉を一切食べない、或いは可能な限り忌避する傾向がみられます。ここはインドのヒンドゥー教圏ほどではないにせよ、菜食主義は一定の影響力を持っております。面白いのが、経済的に可能な限り肉を避けよう、という折衷的態度が見受けられること。ドグマ的に肉を忌避しているわけではなく、自分の消費量を減らすことで少しでも動物が殺されるのを防ごう、という実際的考え方なので、創造するようなファナティックな雰囲気は弱め。はたまた、話が環境問題に移りますと、平等の意識は未来の世代にも及んでおります。つまり、現代に生きる人と同様に、将来に生きる世代にも環境を享受する権利がある、という考えの元、環境保全活動、或いは政策が主張されるわけです。もちろん、ほかにも考え方はありましょうが、実際に留学先のルンド市の環境保全課にインタビューを行った際には、次の世代に負担を先送りしないこと、が最大のテーマとして強調されていました。

 

以上のように、個人の自由の尊重、平等の原則が徹底している風潮は、裏を返すと、こうした理念に反する言動や制度に対して否定的であることにもつながっています。

例えば、男女の役割の違いを強調するような言説は好まれません。確かに、「男が稼いで、女は家で家事と育児だけやっていればいい」というような論は、日本でも大きな批判の対象たりえます。ただ、スウェーデンはさらに徹底していまして、男女関係が始まるにしても、「アプローチを始めるのも男女平等であるべき」と僕の周囲のスウェーデン人大学生のほとんどが考えています。それは性交渉の局面ではなくて、声をかけるだとか食事に誘うとか、そうした人間関係の構築の局面でことさら強調されます。「男の方から誘うのが普通」と個人的に思っていた僕の意見なんかは、旧態依然的で、not goodだそうです。

また、政府を中心に生産年齢人口の労働市場参加を強く奨励しており、かつ男女ともに市場参加率が高いことは、裏を返すと、働いていない人に対して「働くべき」という圧力がかかりかねないことにもつながります。事実、高福祉は高負担を前提にしているため、再就職支援の名目のもと、失職者は速やかに行政の就労訓練に参加することが義務付けられています(秋朝, 2010)。決して多数ではないものの、女性の間で専業主婦になりづらいことに不満を抱えている人も少なからずいるよう。

 

以上のように、国民の間での広範な同質性、更に言えば「規範」が広く共有されていることからこそ、高福祉高負担のスウェーデンという国家は形成されている一方で、その「規範」に必ずしもそぐわない個人は、国家や社会が個人を一定の方向へ強制する圧力のせいで、常に少なからぬ居心地の悪さを感じ続けることになってしまうんではないでしょうか。解放されるべき「桎梏」は公的に決定されていて(「女性性」や精神や肉体の「障害」)、また社会の構成員間の差異は是正されなければならない。

 

不愉快でない権力

今回は、スウェーデン社会にみられる「規範」の拘束力をフーコー福祉国家とその権力批判の文脈で理解しようと思います。

依拠するのは、『監獄の誕生』でフーコーの展開する、人々を矯正し活発な服従への馴致する権力観。君主の権力のデモンストレーションとして機能した身体系中心の古典主義時代の消極的刑罰体系から、支配層に不都合な人間を取り除きつつも規律化して一定期間ののちに社会に復帰させる拘束系中心の積極的刑罰体系への変化から、近代国家の持つ、「国家」という主体のために人々を教化し規律を与えて動員しようとする指向性を指摘しています。この権力においては、国民の幸福と生命の管理・増進が目的であり、国民の生活は細部に至るまで政府の関心事となります。また、この「規律」中心の権力は「正常」と「異常」を区別する科学と密接に結びついているとされ、近代において著しく発達した医学、精神分析学、心理学、疫学、発達学はこうした「規範」形成に重大な役割を演じたとされます。この権力の最高の顕現は、「少年院からの出所の折、そこで過ごした日々に感謝し、またその日々との惜別に涙する少年」というイメージで象徴されます。

この権力概念の有用性の一つは、人々の意識に上らない権力——ルークス的に言えば、第三の権力——を捉える契機となりうること。権力が人々に意識されるのは、各人の意志とは反する行為を強制されたり、自分の意見を抑圧されたりと、明確に負の効果とそれへの不快感が知覚された瞬間がほとんど。しかし、このフーコー的権力観——生ー権力——は、目的自体が「国民の生命と幸福の増進」であるとされ、個人の生命と幸福の増進との間に見かけ上の矛盾がほとんどないこと、また、この権力観においては「正常」な国民を養成するうえで教育が国家の最大関心事となるため、個人の価値観・意識に国家が大きく浸食していることが想定されることから、素朴な権力観では捉えきれない影響を想定・浮き彫りにできます。

一方で、フーコー的権力観——生ー権力——は、たとえその存在を認めたとしても、反抗の可能性は極めて乏しいと言えます。それは、以下の問いに集約されるでしょう。

第一の問いは、「この権力にあらがう必要はあるのか」という根本的な問い。通常、権力への抵抗は自分の実感する不快感の解消を原動力とするものですが、この権力観において、権力の行使は個人の価値観と概ね一致した方向性で行われ、結果的に各人は「権力の影響」をそれとは実感しない状況が生まれます。後述のように、この権力は「一つの装置」であり、この「装置」の中で生まれ育ったものにとって、それを批判することは極めて難しく、また、各人の認知する、実際的な克服の必要も乏しいものだと言えるでしょう。

第二に、この権力に抵抗の対象たる「権力行使主体」は存在するのか。従前の権力論においては、あくまで権力とは主体Aが主体Bに対して行使するものとされ、その際、主体Aは主体Bに対して影響力を行使する意図を持っていると想定されます。しかし、主体Aと主体Bとの関係性の双方向性が高まった場合、両者の権力行使関係は曖昧になっていきます。政治的局面で、「支配層」と「被支配層」を想定する場合、王と臣民という図式においては、両者の構成員の流動性は少なく、関係性は一方的になりやすいでしょう。一方で、民主主義体制——国民が治者にも被治者にもなる体制——では、両者の人的流動性は高く、政治家が政策によって被治者に影響を行使するのみならず、被治者も選挙など政治家への強い影響力を持ち得るため、両者の権力関係は双方向性を増します。結果、一定の教育制度・環境下で育った被治者には一定の価値観が外在的に形成され、そうした彼らの要望に沿う形で治者は政策を講じるというメカニズムが形成されます。とりわけスウェーデンのように、歴史的な社会的階級制が弱く、また政策の媒体たる政治機構が巨大な社会においては、治者・被治者の区分と影響の因果はますます不明瞭になり、方向付けされた価値基準が、「権力行使主体」の意識のないまま、加速度的に強化されることに繋がります。権力構造自体が、行使主体不在のまま、自己完結的な「装置」として機能し得るということです。

 

ユートピアスウェーデンへの批判の可能性

スウェーデンの政治制度を批判することは、多かれ少なかれ「スウェーデンを礼賛するような大人に教育されて育ってきた」といえる僕にとって、自分の既存の価値観を攻撃することであり、自己矛盾的で容易ではないんですが、少なくとも現時点で可能性を見出している糸口は以下の三点。

第一に、「正常」と「異常」とから成る、「治療されるべき」二項対立の図式の超克。具体的には、最初の章で触れたように、医学的、心理学的な「異常」の研究と、その治療指向性ことを言っております。一般に、「健康」=「正常」という図式で現代医学や心理学は考えられており、「不健康」=「異常」は治療によって克服されるべきものだとされています。高福祉といわれるスウェーデン社会保障制度も、身体的・精神的「異常」を抱えた人たちが「正常」な人と同様な生活を送れることを主目的とし、世界的にも有数の広範な制度を形成するに至っています。しかし、この二項対立は自明だと言えるのでしょうか。フーコー的系譜学によれば、この「正常」と「異常」との二項対立は、近代国家成立の折、工業化や戦争など国家目的の遂行のために適切な国民を確保する必要から、人々を規格化するために導入された分類とされます。この二項対立の問題点は、公に「異常」が定義されることで、そのカテゴリに該当する個人は、自らの「異常性」を認めることを余儀なくされ、近代以前では抱かなかったような「強調された苦しみ」に苛まれる可能性があること。とりわけ、スウェーデンのように、様々なカテゴリの「異常」に対するサービスが充実している社会では、サービス利用が気軽であるがために各人の「異常」を浮き彫りにする機会が多く、かつサービス受給資格など「異常」の定義が明確であるがために「正常」と「異常」との境も明確になります。結果、個人は自らの「異常性」を受け入れることを余儀なくされ、不必要な苦しみにとらわれる可能性があると言えるでしょう。

第二の批判は、基本的人権の尊重と平等というような、スウェーデンの現代政治を支配する理念の先に、潜在的な問題があるのではないか、という問い。この問題に応える契機として僕が見做しているのは、スウェーデン国内での孤独死の問題。前述の通り、各人の「桎梏」からの解放を目指すスウェーデンでは、defamilization=脱家族が顕著な社会的特徴とされています。日本でいう核家族化をさらに推し進めたような状況でして、個人の生活上のニーズの大部分を政治が担い、個人が私的人間関係に頼る必要がない社会を目指す、というものです。具体的には、離婚しても経済的に困窮しないような制度が整っており夫婦間の依存関係は弱く、また、介護等も政治が代替しているため、親子間での依存関係も解消されています。それだけ聞くと良いことのように思われますが、この負の側面として、高齢者における孤独が近年問題視されています。つまり、一切の人間関係に頼らずとも、政治的制度のおかげで生きていけるので、特に学校や職場の機会のない高齢者において、個人間の結びつきが弱まる傾向にあるということ。「終わり良ければ総て良し」というように、人生においても最晩年の充実度が人生そのものへの満足度に直結すると個人的に考えているので、スウェーデン社会における孤独死の問題は、個人化を目指す風潮全般における重大な問題点として今後とも扱っていきたいと思います。

最後に、「人権」「平等」というような価値観は、唯一絶対のものなのか。これは、日本に比して上記の理念が極度に普及しているスウェーデン社会に身を置いて最初に感じた違和感であり、また、「西欧」=キリスト教社会という前提の元、歴史上長く異世界であった「日本」或いは「非キリスト教徒」というアイデンティティからくる反動的問いです。僕の生涯の教育を通して、「人権」や「平等」という理念は常に「目指すべき理想」として無批判に語られてきたように思います。もちろん、この莫大な問いの前に、安易な自己肯定という陥穽に陥ることなく、新しい地平を切り開くのは至難の業でしょうが、ニーチェ的系譜学、或いは儒教など空間的に僕に近い学問を知ることで、新しい価値観を養成できれば、スウェーデンという「リベラリストユートピア」を原理的に批判できる一歩となるでしょう。

 

終わり。