さしのみ

東大で法律学んでる傍ら、高齢化とその他諸々の本、論文の要約レビュー等をやってます。感想・ご意見等、時間の限り書いて寄越してください。

儀式

 『死の家の記録』の中で、普段は荒くれ物の流刑囚たちが、キリスト降誕祭に際して、まるで別人のように粛々とふるまう描写が登場する。世の規則に背いた悪党どもが、自らの意志で、何の義務もないルールに身を服している姿は、どこか微笑ましい。

 囚人たちのこうした気分のあり方は瞠目すべきもので、感動さえ覚えた。大いなる祝日に対する生まれながらの敬虔の念に加えて、囚人たちは無意識に感じていたのだ——この祭りを祝うことによって、自分はいわば世の中の人全部と触れ合っている。ということは自分も、完全に世から見捨てられた滅びた人間ではないし、切り離されたパン切れなんかではなく、たとえ監獄の中にいても、世間にいるのと同じなのだと。彼らはまさにそう感じていた。それは一目瞭然だったし、また理解できることであった。(光文社『死の家の記録』)

  シベリアの彼方の囚人たちが遥か遠くの市井の人々との繋がりを再現しているように、世の種種の儀式的形式は人を何らかの概念と結びつける手段としての意味を持っている。儀式は、日常では到達し難い概念に対して、より多くの人間が、より簡単にアクセスすることを可能にしている。

 ここでいう概念の一つとして、各人の過去がある。囚人たちにおいては、幼き頃に家族で祝った祭日であり、収監以前に味わった市井の様々な感情であるのかもしれない。或いは、儀式の対象が個人よりはるかに大きな構造の場合もあるだろう。宗教的儀式がそれであり、個人では到底たどり着けないもの——一般には神、ジョゼフ・キャンベル的に言えば「見える次元を支えている見えざる次元」——と個人とを一体化させる機能を持つ。

 こうした儀式を通じて、人は何を求めているのか。まず第一に、自己をより純粋な、より高次の存在として再認識すること。神との接近を意識する際は言うまでもなく、過去の思い出が対象となるときも、そうした思い出は何らかの概念——身体的若さ、絶対的楽しさ、燃えるような恋など——に昇華しており、人は儀式を通じてその概念を現在の自己に再投影している。こうした意味合いは、裏を返すと、儀式を通じて現在の自己の否定とつながっている場合も多い。柳田国男が東北の祭りの習慣を「ハレ」と評したように、祭りは日々の単調で苦労の多い日常から自己を開放する契機として解釈しうる。

 とまぁ、素人講釈を垂れましたが、言いたいことは儀式は自分の分析に役立つ物差しだということでして。僕自身、優れて「儀式」色の強い中高時代を過ごしていたので、当時はいろいろと議論がありましたが、儀式を一体化のプロセスと考えると腑に落ちることも多いわけです。当時、「伝統」という言葉でひとくくりされていたことは、少し細分化すると、自分がそれまで経験してきた思い出であり、自分が心底あこがれた先輩方の姿であり、日々の細かな行為に、そうしたものとの一体化の契機を読み込んでいたんですな。

 それはそれですごく楽しいことが多かったんで厘毛ほどの後悔もありませんが、やはり問題点も多々ありました。まず、この手の儀式はそれが象徴するものと密接に結びつているため、その対象への愛情と嫌悪とが激突する瞬間にもなるわけです。嫌悪抱く側がいくらそれを批判したところで、その対象と儀式とを愛している側からすれば馬の耳にぶつぶつ言っているようなもんでして、一切響かない。少しお互い歩み寄ろうと思っても、儀式の形式の端々まで愛着があるもんですから、簡単に妥協案を出せるわけでもない。「生みの苦しみ」とは良く言いますが、万事、改革するってのは流血なしでは進まないって言うことは、これも要因でしょう。

 何より、人が不安だったり、明確な目的がないときほど、儀式は跋扈するということ。確か米朝師匠だったと思うんですが、曰く「才能がなくなると、形式が始まる」。形式が必ずしも悪いわけではありませんが、形式を如何に自分事として些細な感覚を大事にできるかが分かれ目、ということでしょうか。

 

死の家の記録 (光文社古典新訳文庫)

死の家の記録 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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終わり。