さしのみ

東大で法律学んでる傍ら、高齢化とその他諸々の本、論文の要約レビュー等をやってます。感想・ご意見等、時間の限り書いて寄越してください。

「高齢者」というカテゴリー分けの問題点

「お年寄り」「若者」なんて世代論にはじまり、「男」と「女」、「学者」と「実業家」などなど、社会を様々グループ分けして話をすることは日常茶飯事じゃないかと思っておりまして、最近の若者はSNSのせいで人間関係が希薄だ、なんて具合に特定のグループに或る属性(ここでは、人間関係が希薄な集団)を付与して、何だかんだお喋りを楽しんでいるわけです。こうした行為も立ち話ならあまり害が無いものの、政策や広範な実務レベルで適用されると、色々大きな支障が出てくるんでございます。

 

今回取り上げるのは、またまた、ルンド大学ヨンソン博士の"We will be different!: Ageism and the temporal construction of old age"という論文でして、現役世代、特に医療従事者間における「高齢者観」の特徴と、それに起因する問題点の指摘が主な内容になっております。

 

ここで問題にされている高齢者観が何かと申しますと、端的に言えば、「今の現役世代が将来高齢者になった時、現在の高齢者とは違う性質をもった社会集団になるだろう」という見方。言い換えると、過去、現在、未来の高齢者を互いに異なる性質を持つ集団として捉える傾向がある、という指摘。

筆者は20世紀中ごろにかかれた書物や論文に遡り、現代の高齢社会の研究で言われているの同様の「現在の現役世代が高齢者になった時、今の高齢者とは異なる性質をもつ集団になるだろう」という主張があることを指摘しているわけです。もっとも、さかのぼれば、今と同じような意見を述べている作家や研究者の一人や二人が見つかるのも不思議ではなく、筆者が量的な言論分析を行っていない以上、上記の高齢者観の連続性が現実世界でどれほどのインパクトを持っていたかは果たして疑問符。ただ、以下に述べるように、筆者の指摘は一部の高齢者への適切ではない扱いを是正するうえでは良い見方と思われますので、思考実験と思ってお付き合いください。

 

さて、以上の高齢者観が実際にどんな不具合を招いているのかについて、博士の指摘は以下の通り。

・高齢者を、自分たちとは異なる、外集団として扱うことを一般化している

・社会を年齢ごとに区分けする見方を強化している

介護施設内で、高齢者に対するクオリティの低いサービスを正当化する理由として作用している

 

まず、社会を年齢ごとに区分けして、高齢者を外集団として扱う傾向については、現役世代に共通で見られ、かつ戦前から見られる見方として筆者は指摘しております。特に後者については、現代の研究、記事で見過ごされている点として、筆者は強調してるわけです。

その結果、現役世代との比較の結果、高齢者に対して広範で否定的な属性が付与されがちであることが問題点になってくるわけです。実際上の問題は二つに分類できまして、第一、「高齢者」というラベリングが非常に強力で、高齢者と言われる集団の中での多様性に目が行きにくい点。若いんだったら働いて当然、ってな具合で、年取ってるなら仕事辞めて何か趣味にいそしんでなさい、という感じで、個人に対して逸脱を許さないような重い規律になりうるわけです。第二に、付与される属性が概ね否定的であること。これを筆者はAgeismの象徴として考えて居りまして、「高齢化すると体が衰弱する」「生活状況の改善に意欲がなくなる」なんて具合に考えられがちだというわけです。

これらが実際の現場レベルになると、介護従事者が高齢者のニーズを勝手に決めて、自分が利用者なら望まないような施設環境を利用者に強制してるんじゃないのって疑問に変わります。具体的には、筆者が聞き取りを行ったスウェーデンと日本の介護施設でも、従事者は利用者たちは集団で生活することが当然の環境で育ってきており、個室よりも集団部屋に入居することを望んでいる、或いは利用者は元々状況を改善しようという意欲が少なく、今の環境に満足している、など、従事者側に都合の良い状況を利用者に投射しているだけなんでは?と思えるようなことを言っていたそう。

 

以上を受けて、筆者の提案は以下の二つ。

まず、「高齢者」というラベリングが往々にしてAgeismの影響を受けやすく、高齢者を身体的・精神的に衰弱した集団として切って捨てがちな我々の傾向を自覚すること。

第二に、特に医療従事者や政策担当者は、高齢の人が抱えている問題を安易に「高齢化」という要素で説明しようとしないこと。十分に彼らの生活状況や個人的事情を組み、学問的な分析を経たうえで、問題解決のフレームワークを作ろうって具合。

まぁ、二つとも至極真っ当な考え方ではないでしょうか。

 

 

博士の批判はもっともなんですが、現実レベルで変化を起こすにはもう少し踏み込んだ議論が必要なんではないかと。

第一に、どのようにして反Ageism的で、かつ高齢者の「実際のニーズ」なるものに測定するのか。自分の経験や社会的立場から政府などの見解を「現実と乖離している」として批判することは簡単で、それは単純に自分が思う「現実」を相手の『現実』にぶつけているだけで、相手からしてみれば『現実』の方が正しいのであって、議論は深まらない。従って、人それぞれ経験してる「現実」からいったん距離を置いて、統計や法律などより共有しやすい根拠に基づいて、かつできる限り論理構成に感情や特定の倫理を混ぜ込まないで議論できるような方法を導入しないとならんわけです。本件の場合。筆者が自分のインタビューや特定の著作を基に論を展開したところで、あくまで筆者の「現実」に基づいた意見でしかなく、他者への影響力は制限的なものになる。故に、より広範なデータ分析に基づいて、かつAgeismを乗り越えられるような数式や論理体系を構築してこそ、より政治的な影響力のある論が展開できるんではないかと思うわけです。

一方で、政治的影響力を行使するには、政権担当者が無視できないほどの社会的勢力となることも重要な方策で。実際に介護施設利用者、或いは高齢者の意見利益代表団体を構築し、「実際のニーズ」なるものを力技で政府や会社に届ける方法もあるわけです。

 

終わり

人間の性的欲求を進化心理学で解明するぜ【第二回 男性の欲求】

前回は女性の性的欲求について記事にしましたが、今回は男性の欲求について紹介しようかなと思っております。引き続き、The Evolution of Desire、よろしくお願いいたします。

 

naoshiaut.hatenablog.com

 

 

The Evolution of Desire: Strategies of Human Mating

The Evolution of Desire: Strategies of Human Mating

 

 

さて、前回は女性の欲求が、男性の持つ資源の多さ、男性の将来的なコミットメント、男性の肉体的強さの3つの軸からなっているよー、というお話をしましたが、男性の欲求はよりシンプル。ずばり、「若さ」「外見」、そして「貞節さ」。男ってバカだなーの定型句は読み終えてからでお願いします笑

 

まず、男性は「若さ」を好む、ということは女性の生殖能力と関係があるとされています。本書では女性は十代で性的成熟を迎えたのち、二十代半ばを期に徐々にその生殖能力が低下していくとしています。今でこそ、母親が三十代の時に生まれた子供の方がIQが高い傾向があるだとか、三十代の方が精神的、社会・経済的に女性が安定していて子育てに集中しやすいだとか、いろいろ言われておりますが、生物学的に安全に、かつ身体が丈夫な子供を産む、という観点では、若いほうが良いんでしょう。事実、男性の精子は日々新しく生産される一方で、女性の卵子は子供のころに作られて以降は新しく生産されることは無く経年ダメージが蓄積しやすいことも、低年齢の方が出産に向いている(妊娠しやすく、卵子へのダメージが少ない)と言えるんでしょうなぁ。

「若さ」への執着という点で、男性は女性のパターンとは異なっております。つまり、女性が一生を通じて自分より三歳程度年上の男性を好む傾向があった中、男性は二十歳直前の女性を最も好み、男性が十代のころは年上、二十代を超えると年を取るごとにますます年下好きになる傾向があるということですね。男は二十歳を過ぎると若い娘の後を追っかけるようになる生き物なわけです。

意識的かどうかは分かりませんが、女性がいつの時代も「若返り」に執心しているのは男性のこの傾向のせいかも。現代の化粧でも、ファンデーションで肌を均一的に白くし、かつシャドーなどあの手この手で目を大きくするのも、肌が白く均一で顔に対して目の比率が大きいことが幼い顔の特徴であることと一致しますねー。

 

さて、第二の趣向は「外見」。

これも女性の生殖能力との関連で説明されております。重要な点は、全世界共通で好まれる一つの理想的な体系、顔立ちがあるわけではないようなんですが、一方で、男性が女性よりもパートナーの外見の重要性を高く評価している点。どの文化圏でも男性は女性を外見で判断しがち、ということですね。。。

なんだか女性がやるせない気持ちになりそうな結果ですが、女性の体形についてもいくつかの示唆がされておりまして、そのうち2つをご紹介します。

まず、これはアメリカの研究なんですが、一般に女性が思う女性の理想的体形は、男性が思う女性の理想的な体形よりも痩せ気味になる傾向が。しかも、「どんな体形が男性に最も好まれると思いますか」と聞かれても、実際の男性の調査結果よりも痩せ気味の体系を女性は選ぶ傾向にあるんだと。標準かやや太り気味好きを自称しているので、これが日本人にも当てはまるとすると由々しき事態。

次に、女性の生殖能力の相関因子として、Waist-Hip Ratioというものが提唱されておりまして、簡潔に言うとお尻周りを1とした時に腰回りがどれほど大きいか、という比率。女性については0.67から0.80が一般に魅力的な割合だと言われていて、0.70が最も男性の票が集まる比率となっております。男性に関しても魅力的な比率というモノが言われておりまして、0.85から0.95ぐらいが健康範囲。まぁ、男性は肩回りと腰の比率がより重要だとされているんですが。

 

最後になりますが、女性の「貞節さ」は男性には不可欠な要素でございます。ほぼ全ての一夫一妻制文化圏では、結婚後にパートナーが貞潔であること=他の男と関係を持たないこと、は男性が最も重視する要素の一つであります。

これは、前回記事でも指摘した「父親の特定は歴史的に長らく困難だった」という条件に起因しておりまして。簡単に言えば、男性は、自分の遺伝子を持った子供にだけ自分の資源を投入したいので、自分と自分のパートナーとが育てている子供が他人の子供だなんて事態を何としても避けたいわけです。その際に、奥さんが性的に放埓で、妊娠前に複数の男性と関係を持っているとすると、男性側の確証は著しく損なわれます。従って、性的に貞潔で、自分以外の男性と関係を持つ可能性が低いように見える女性を男性は長期的なパートナーとして好むようになってきた、というような説明になります。

 

以上、男女の基本的な趣向を見てきたわけですが、これらの要素は、パートナー獲得競争上、自分で調節、あるいは偽装できる余地があります。その結果、男女は血で血を洗う恋愛模様を各地で繰り広げていくことになるんですが、次回のテーマは「Casual Sex/Attracting a Partner」になりますー。

終わり

双極性障害についての大規模な追跡調査の結果が公表されてたよ、ってお話

好きにな友人のうち、BIG5でいう神経症傾向が高いような人が多いことなんかから、精神病関連の研究に興味を持ち始めたんですけれども、今回は双極性障害に関するアメリカ・ミシガン州のコホート研究の結果に関する論文をメモ

 

双極性障害ってのは一般に躁鬱なんて言われている症状でして、広くⅠ型とⅡ型との2類型に区分されております。第Ⅱ型は、躁状態の高揚感が軽いこと、更に衝動性が高く自殺率が比較的高いことなども指摘されているよう。生噛りの学問を振り回すようで恐縮ですが。

 

さて、本観察はアメリカ・ミシガン州を中心とする1111人対象の追跡コホート調査になっておりまして、498人の第Ⅰ型診断者、136人の第Ⅱ型患者、更には関連する精神病患者57名に加えて、残りの人数はコントロール、ということになっております。

 

そのうえで、双極性障害の特徴としてどんなことが言えるんだろう、という疑問を調査しているわけでございます。以下、発見を列挙。

・健康面、或いは精神面での障害が、非双極性障害患者に比べて、多い。片頭痛にはじまり、薬物乱用、メタボリックシンドロームも多くみられるよう。

・幼年期、青年期でのトラウマ保持率が高い。

・多価不飽和脂肪酸の摂取量が少なく、飽和脂肪酸の摂取量が多い。

・女性患者においては睡眠の質が症状の深刻さに相関している

・男性患者については鬱症状の深刻さが症状の深刻さに相関している。

・脳の実行機能(ワーキングメモリーとか自己制御能力とか)が低い

 

いやー、門前の小僧だと専門的な議論に追いつけないことをヒシヒシと感じる論文体験でした。統計学の知識が無いと相関関係の評価でのp値とかちんぷんかんぷんなんですよねー。更に、精神病理学の知識が無いと、各病名の腑分けの意味が良く分からないので、関係性がつかめないんですねー。

終わり。

スウェーデンモデル入門

日本にいたころ、スウェーデン政治の手頃な入門書が分かんなくて困ってたので、いくつか紹介。

本日紹介するのは以下の2つ。

Alestalo, M,. Hort, S., and Kuhnle, S. (2009), "The Nordic Model: Conditions, Origins, Outcomes, Lessons", Hertie School of Governance - Working Papers, No. 41, June 

Ankarloo, D., (2009), "The Swedish Welfare Model  Counter-arguments to neoliberal myths and assertions", Prepared for Association of Heterodox Economics Conference, London

 

両方とも扱っている題材も違いますし、スウェーデン政治観も必ずしも一致しているわけではありませんが、スウェーデン政治を勉強するうえで接する機会の多い概念について扱っているのでピックアップ。

 

前者の論文は北欧モデル、或いはスカンディナヴィア・モデルの特徴って何なんだろう、というテーマを扱っておりまして、概して言いますとアイスランドスウェーデンデンマークノルウェーフィンランドの最大公約数といえる制度上の特徴と歴史的経緯とをメインにしてるんですね。更に、各国の差異についても随所に指摘があるので入門書として最適かと。

はてさて、論文の冒頭から北欧モデルの特徴はコレだ!と声高に説明してるんですが、その特徴は以下の3点。

Stateness:大きな政府、とでも訳せましょう。言い換えると、社会福祉の充足・管理に関して政府が非常に広範な裁量と影響力を持っていることになります。皆さんの北欧モデルのイメージと非常に近いじゃないでしょうか。更に論文の指摘するところでは、北欧モデルに顕著な点は「政府(=支配階級) VS個人」という側面が非常に希薄で、むしろ広範な裁量を持つ政府が書く社会階級の穏便な利害調整のアリーナになっていること。日本で大きな政府というと「官僚による統制主義だ」とか「個人の抑圧だ」とかいう批判をよく聞きますが、国が違えば状況もガラッと変わるわけですねぇ。

Universalism:普遍主義って訳されるんでしょうかね。つまり、全ての市民が同様に社会的扶助を受ける権利がある、という考え方とそれに由来する制度のことを指します。一般に社会保障などというと「救貧」のイメージが強いかと思うんですが、スウェーデンでは教育から医療、介護まであらゆるサービスの大部分が税金で賄われておりまして、かつどんな人でも自分の必要に応じたサービスを要求する権利を持っていることがポイントでしょう。

Equality:歴史的にも、現代社会における圧力としても、人々の間の差異が非常に小さいことが指摘されています。何を以てして社会的格差が小さいと定義するかには百論あるでしょうけれど、北欧モデルでは特に以下の3点、農民の高い地位と弱体な領主からなる歴史的に平板な社会構造、議会政治と労働交渉における労働者階級の強い影響力、社会的な性差の小ささが言及されてますね。

 

もっとも、こうした類型化は常に議論のあるところでありまして、多かれ少なかれ学術上の議論のための単純化が避けられないのはご承知の通りでしょう。ただ、本論文には各分類をするに至った歴史的経緯の考察、上記の3類型が現代社会の中でどのように変化しているかという点への言及もありますんで、ご関心の方は、エスピン・アンデルセンの古典的類型と合わせてご参照いただければ。

 

 

続きまして、後者の論文は別の3つの観点からスウェーデン政治・社会の特徴をまとめております。シャーロックホームズの言う通り、3ってのはマジックナンバーですね笑

この論文の基調は、ネオリベラルからスウェーデンモデルは喧しく批判されてるけど、彼らの主張には科学的根拠が欠けているし、彼らの言うよりずっとスウェーデンは変化に対応している、というスウェーデン擁護なわけなんですが、まぁさらっと見ていきましょう。

筆者は、スウェーデンモデルには3つの特徴的なロジックがあると主張しています。スウェーデン社会と政治とを考えるうえで基礎となる3つの制度的特徴とでも言い換えられましょう。

Social Services:行政団体によって提供されている社会的サービスのことを指します。教育とか医療、介護とか。大まかな特徴は、①税金によって大部分が財政的な支援を受けていること②全ての地方で共通した一定のアクセスと質の保障が目指されていること③市場原理ではなく、利用者のニーズに合ったサービス提供を旨とすること。②のような画一性を追求しつつも、③のように柔軟なサービスを提供するというジレンマに対応するためにスウェーデン国内の社会保障サービスはサービス提供行程に重点が置かれているんですが、それはまた今度余裕があれば。

Social Security:人々が安定して生活を送れるような制度のこと。種種の収入保険はFörsäkringskassanという国営企業が一手に賄っておりまして、失業保険から疾病保険まで非常に広範な所得補償がなされております。そのほかにも、失業の際の就業訓練や育児休暇まで、様々な人生のイベント・トラブルに適応するための制度が作られているんですねー。ただ、the right to work, but not to your jobという社会民主党のスローガンにもある通り、就労への圧力が高いとも理解できるわけで、多少の息苦しさはあるでしょうけれど。

Marginal welfare:上記のサービスを利用しても生活水準が不十分な方向けの保障制度ですね。日本でいうと生活保護などに近いんじゃないですかね。「救貧法」の名残だと批判されることの多い部分でもございまして、近年移民の増加に伴い彼らの受給が議論を呼んでいるところでございます。

 

以上みてきた通り、けっして統一見解は無いんですが、スウェーデン社会、政治を理解するうえで良く使われる切り口をご紹介いたしました。

今度は、ユートピアとして描かれがちなスウェーデンの制度の欠点についてまとめた記事なんか作れると良いかもしれませんね。性格悪そうですが笑

 

終わり。

 

人間の性的欲求を進化心理学で解明するぜ【第一回 女性が望むもの】

進化心理学の入門書として読んだThe Evolution of Desireって本が、男女の性戦略に関する科学的知見の宝庫で、非常に面白かったのでメモ。最新の2016年版は英語版しかありませんが、旧版は日本語訳されているようなので興味あればぜひ。

 

The Evolution of Desire: Strategies of Human Mating

The Evolution of Desire: Strategies of Human Mating

 

 

 

女と男のだましあい―ヒトの性行動の進化

女と男のだましあい―ヒトの性行動の進化

 

 

前提

さて、心理学と一口に言っても種類は様々。社会心理学、パーソナリティ心理学、果ては精神分析学と、定義次第で裾野はどんどん広がっていくわけです。

そんな中で進化心理学は心理学と生物学の双方の知見から人間の行動、心理を読み解こう、という試みとして位置づけられています。人間の中での「生物」としての共通部分に注目するって具合です。そのため、本書が最たる例ですが、参照される研究は、北はイヌイットから南はアフリカ、アマゾンの先住民まで対象にした包括的な研究、更には人間以外の昆虫や哺乳類の研究にまで至ります。そうして得られたデータや知見を、生存競争や進化などといった生物学おなじみの概念で理論化し、人間の行動を説明していくという流れです。

 

初めに、進化生物学から人間の性的欲望を読み解くうえで、重要な概念を3つ紹介します。

第一に、人間は自分の遺伝子を次世代に可能な限り多く、かつ良い遺伝的性質で残そうとするものだと考えられているということ。身もふたもなく言えば、自分の遺伝子を持つ子供出来る限りたくさん残し、かつその子たちに少しでも良い遺伝子を残そうとしてるってことです。人間を遺伝子拡散装置としてみる見方は、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」が代表例ですが、生物学会では大勢の見方になっています。ロマンチックさのかけらもありませんけどねぇ。

第二に、男性よりも女性の方が貴重な生殖資源をもっていること。簡単に言うと、一生涯で作れる子供の数が女性の方が少ないということです。女性は一度の出産に9か月拘束されるうえに、その期間で出産できるのが基本的に1人ですからね。歴史上でも見ても、最も子供をもうけた女性はロシアの方で69人のお子さんを出産されたらしいんですが(これも驚異的ですが)、一方、男性だとモロッコのスルタンで500人以上血のつながった子供がいた方なんてのもいるので桁が違う笑。この生殖資源の差から、基本的に女性の方がパートナー選びに慎重になる傾向が指摘されてます。

第三に、一般に父親の同定は難しいこと。母親は、その人から実際に生まれてくるわけなんで、簡単に特定できるんですが、父親が誰かを特定するのは人類史上の問題であり続けてきました。最近でこそ、遺伝子検査が普及して、出産後に父親の特定をすることも可能になりましたが、それまでは男性の最大の関心事の一つはパートナーの子供が自分の子供であることを保障することだったと言えます。この特徴は、今回の記事には関係ないものの、次回以降の男性の性的思考や婚外交渉なんて話題に及んだ時に大事な概念になってきます、ああ怖。

 

利己的な遺伝子 40周年記念版

利己的な遺伝子 40周年記念版

 

 

 

本論

本著の第一章は進化心理学の原理や学術的な立ち位置をさらっておりまして、第二章What Women Wantから具体的な内容に入ってまいります。

女性の性戦略を考えるうえで、前述の性的資源の希少さ(埋める子供の数の少なさ)、少しでも良い遺伝子を求めてるという二つの特徴に加え、女性は身体的・経済的に男性の援助が必要としてるってことが前提になります。とりわけ古代においては女性だけで子供を育てるってのは非常な困難を伴うものだったわけです。

さて、それをふまえて、女性の性戦略の要となる目標は3つに分かれます。「出来る限り多くの資源を持っている男性と結ばれたい」「継続的に自分と子供とに資源を与えてくれる男性と結ばれたい」「自分を外敵(特に他の男性)から守ってくれる男性と結ばれたい」の三点ですねー。

 

「出来る限り多くの資源を持っている男性と結ばれたい」

男性の持つ資源を最も直接的に表し、かつ調査上でも全世界的に女性がパートナーに求める性質として、富、権力、年齢の三本柱が挙げられています。

富 ーカネ、土地、道具ー

早速、身も蓋ももない話ですが、経済的豊かさと安定性とは世界津々浦々の女性がパートナーに望んでいる要素だそう。ほとんどすべての国や地域での調査でも、女性は経済的豊かさと安定性を「不可欠」だと判定する傾向があったようです。サバンナの狩猟採集時代を考えてみれば、最も重要なことはパートナーがより多くの食料を家に持って帰り、女性と子供に分け与えることだったわけです。狩猟の必要のない現代においては、富、もっと直截に言えばカネが最も重要な生存を保障するための資源になっているわけです。その意味で、沢山のお金を持つ男性は、女性にとって自分と自分の子供にとって沢山の保障と子育ての選択肢を提供してくれる存在なわけですねー。

権力 ー社会的ヒエラルキーと社会資源ー

原始狩猟社会にあっては、社会的ヒエラルキーの高さはそのまま保有する資源の豊かさと直結していました。更に言えば、社会的ヒエラルキーの上位にいるということは、他の男性との競争に秀でているとも解釈できたわけです。現代においても、社会的地位の高さは生涯年収の高さと相関があるのみならず様々な社会的資源へのアクセスを意味していると言えます。故に、社会的地位の高い男性と結ばれることは女性にとって豊かな資源へのアクセスを得ることと同義であって、実際の調査でも全世界的に社会的地位の高い男性はパートナーとして非常に好まれる傾向が出たそう。

年齢 ー年上好き女子ー

狩猟時代にはハンターとしての実力が重要だということは前述のとおりですが、基本的にハンターとしての生産性は三十歳前後で成熟すると言われております。女性の生殖適齢期は十代後半から二十代前半にかけてと言われており、適齢期の彼女らにとっては自分よりも年上の男性と結婚することがより良いパートナーと結ばれることを意味していたわけであります。現代においても基本的に男性は年齢を経るごとに収入と社会的地位が上昇する傾向にあるので、状況は同様。結果、基本的に女性は自分よりも2歳から5歳上の男性を好む傾向が強く出るんだそう。しかも、この傾向は全世代で共通なんですねー。これは男性が年を取るほど、ますます年下好きになる点と対照的。

 

 ただ、以上三つの要素ってある程度年取っていれば分かるけど、皆が同じような状態の若年層とかだと分かりにくいよね、という問題があるわけです。そこで、将来の富や社会的権力を示唆する幾つかの性質にも注目するようになりました。

野心 ー経済的、社会的性向への原動力ー

孫さんは「志高く」を左右の銘にしていらっしゃるようですが、成功の階段を登らんとする意思は経済的富と社会的権力の獲得とに大きく関係していると考えられているわけです。事実、アンケートでは男性よりも女性の方がパートナーの野心をより重要視する傾向が強く、台湾では26%、ブルガリアでは29%、ブラジルでは30%も高く女性が野心を評価しているとのこと。海賊王にはならないにしても、何らかの野心をもつことは恋愛市場でも必要なんですねー。

勤勉性 ー高収入と昇進の最大の予言因子ー

真面目に一生懸命仕事に取り組む人が収入増加と昇進の可能性が高いというのは当然の話。心理学の他の分野でも、性格分析で多用されるBig5のうち「誠実性」(本著でいう勤勉性とほぼ同義)が高いほど、収入が高くなったり、より高い地位につく可能背が上がったりということが指摘されているのと一致しますねー。最近疑義が呈されてはおりますが、マシュマロ・テストなんかはその古典的証明の一つ。更に、誠実性はフロー状態への入りやすさと相関していたり、近年話題になった「グリット」は誠実性のことなんじゃねって流れに心理学会がなっていたりと、成功への近道として話題沸騰なわけで、女性が本能的に重要視するのも自然でしょう。あ、それと、女性陣にも誠実性は不可欠で、奥さんが誠実性の高い方であるほど旦那さんが出世しやすい、いわゆる「あげまん」だって研究が出ておりました。是非、ご参照のほど。

 

成功する子 失敗する子――何が「その後の人生」を決めるのか

成功する子 失敗する子――何が「その後の人生」を決めるのか

 

 

 

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

 

 知性 ー集団管理と技術習得の基礎ー

 知性って何よ、ってのは学術的には非常に議論のあるところなんですが、一般には教育レベルや異文化理解、具体的な物事から抽象的な原理を見つけ出す能力なんかが該当するんではないかと。アンケートでも、すべての国と地域で、女性たちは知性の高い男性を好む傾向があったそう。狩猟時代でも、環境や異文化への理解能力、集団をコントロールする能力、技術を頭で理解する能力なんてのは、良いハンターになること、ひいては生存に有利だったでしょうから、これも納得かと。

 

「継続的に自分と子供とに資源を与えてくれる男性と結ばれたい」

いくら資源を持っていても、子どもを育てている間その始原を提供してくれなければ意味がないわけで。従って、女性たちにとっては継続的に資源を提供してくれるような男性を選ぶことが最大の課題のうちの一つだったと言えます。しかし、これはカネや権力のように、現在の状態から明確に分かるモノではないため、女性たちは幾つかの性質に注目していくことになります。

信頼性、もしくは安定性 ーATMが至高形ー

継続的に資源が必要になる以上、男性側からの資源供給は安定性が要になってくるわけです。その点、感情的に不安定で、狩りの頻度がまちまちだったり、女性や子供に対して暴力などで感情的不安定性を発散されたりすると大迷惑。そこで、女性は男性側の感情的安定性、更には自分へのコミットメントの信頼度を高く評価するようになったと考えられています。まぁ、このコミットメントの重視は男性側にも言えることなんですが、これは後日触れたいと思います。

類似性 -Birds of a feather flock together-

長い子育ての期間を共に過ごしていくうえで、お互いに相違点ばかりじゃ疲れるばかりですよね。事実、相違点があまりに多いと、普段の生活の中でケンカや不和が多くなって余計なエネルギーを吸い取られるばかりでなく、最終的にはパートナー関係の解消なんて事態にもつながりかねないわけです。その意味で、将来のリスクを軽減するために、女性は自分と類似点の多い男性を好む傾向が強くなります。

 

「自分を外敵(特に他の男性)から守ってくれる男性と結ばれたい」

さて、最後に自分を外敵から守ってくれるような男性を助成を好むってのは一般常識とも合致するんじゃないでしょうか。以下、なんだか世の中結局遺伝かよ、と男性側は嘆きたくなるような内容ですが、是非ともご一読いただければ。

力強さ ーマッチョな高身長は当然モテるー

題名で明らかですが、ガタイが良くて、背の高い男性は世界共通で女性からモテます。大体平均すると、女性よりも20㎝前後背が高く、かつ上半身が鍛えられていて逆三角形の男性が理想的。体系については理想の値というモノが産出されておりまして、肩回り:腰:お尻の比率が、1:0.6:0.65ぐらいが理想的だそう。身長はどうにもならんので、皆さん一緒に筋トレに励みましょう(泣)

健康さ ー免疫と遺伝子ー

東西どの文化圏でも肌に発疹があったり、からだの形が非対称な男性は女性から忌避される傾向があるらしい。実際、現代医学でも遺伝子レベルで免疫は決定されていることが分かっているので、男性の健康状態を見れば遺伝子の優劣がある程度わかるって具合ですね。従って、女性も健康状態の良い男性を当然好むわけです。

 

 

以上、大まかなまとめでしたが、さらに重要な点は、女性の好みは環境や文化圏次第でかなり柔軟に変化するってことでしょう。例えば、以上、すべての特質を兼ね備えた男性なんてのは極めてまれなわけであって、たいていの場合「金持ちだけど不誠実そうな男」と「さえない貧乏人だけど自分に誠実な男」の二択、なんて具合でトレードオフの状況にあるわけです。これ以外にも様々な例外が本書には記載されていますし、上記の特徴についても詳細な説明と実験データが載っているので、是非ともご一読をお勧めしますー。

高齢者に対する見方を変えようぜ、という小論

最近、片っ端から著作を読んでるのが、ルンド大学のヨンソン博士なんですが、彼のメインテーマの一つがAgeism(高齢化は心身の弱体化と不可避に結びついているという考え方、或いはそれに基づく行動やシステム)を如何に克服するかってことでありまして、それについてまとまった小論があったので、まとめておこうかなと。

 

誤解を恐れずに言えば、高齢者を差別抜きで扱おうぜ、というお話。差別なんかしてないわ、むしろ丁重に扱ってるぜ、という人もいらっしゃるでしょうが、もちろんその通りなんでしょうけれど、実際の論はもう少し入り組んでおります。

 

差別ってなんじゃろな、と考えますと、ヨンソン博士らは「内集団比較」と「外集団比較」という概念が高齢者差別の根源にあるとおっしゃっているわけです。

人は物事の状態を評価する際に、たいていの場合、別の物事との比較を利用します。例えば、自分の収入が高いのか低いのか判断するのに、平均年収という一般基準であったり、先週末一緒に飲んだ同じ業界の友人の年収だったりを評価の軸にするわけです。ここで、自分と同じカテゴリー(上の例では同じ業界の友人)の集団を比較対象にすることを「内集団比較」、自分のカテゴリーとは別のより大きな集団と比較することを「外集団比較」と呼びます。

ここでヨンソン博士らが何を言いたいのかといいますと、高齢者介護の文脈では「内集団比較」が多用されすぎていて、高齢者のニーズが十分にくみ取られていない、高齢者の権利が不当にないがしろにされているんじゃないの、と指摘しているわけです。

何故、内集団比較が高齢者にとって問題なのかというと、Ageismという考え方がここに入り込んでいるからです。先ほども軽く触れた通り、Ageismというのは、高齢化に伴い人は心身ともに衰弱していくものであり、若い一般に人々らと同じ水準で生活することは難しいという考え方、あるいはそれに基づくシステムや行動を指します。一見すると、非常に生活実感に会う考え方ですし、かつ高齢者の方に無理を強いない、高齢者の方に出来る限りの補助を提供することを正当化するうえで、いい考えのようにも思われるわけです。しかし、ヨンソン博士らが一貫して批判している点ですが、この考えは、高齢者なんだから多少生活のクオリティが低下していても仕方がない、というあきらめにも似た考えに簡単に結びついてしまうんですね。例えば、認知症介護施設で、一人の利用者が散歩に行きたいといった場合、付き添いが必要になります。その時に、人手が足りなければ、その方の要望が却下されるのもやむなし、ということに往々にしてなるわけです。

でも、どんな分野でもそんなもんでしょうと思われるかもしれません。事実、僕も日本にいた頃はそういうように考えていたんですが、しかし、筆者はスウェーデン国内における若年障碍者福祉の例を持ち出すんでございます。

具体的に何のことかと申しますと、スウェーデンは長らく、若年障碍者が障害のない同世代の若者と同じような生活を送れるような支援を提供しようという流れがありまして、その点で、若年障碍者間での「内集団比較」ではなく、若年層という「外集団比較」が障碍者政策で用いられてきたと言えます。これを高齢者介護の文脈にも当てはめてみようと。

言い換えれば、Ageismの考え方を克服して、若い健常者に当てはまるような考え方、基準で高齢者被介護者の生活環境を考え直そうぜ、ということです。具体的には、管理しやすいように特別に設計された施設ではなく普通のアパートのような一人部屋に入居してもらおうとか、従来は別居もやむなしだった認知症カップルも一緒に住めるようにしようとか、「高齢者だから」「障害があるから」という理由を極力排除して介護にあたっている事例が紹介されています。

 

以上をふまえまして、以下いくつか考察、所感をば。

まず、如何にして、この理想を実現するための人員を確保するのか。日本でも画一的でなく個人のニーズに合わせたきめ細やかなサービスを、なんてテーマはいたるところで目にしますが、実際問題は介護労働力の不足で現場は最低限のサービスを提供するだけで手いっぱいな状況がほとんどではないかと思います。少なくとも、僕がインターン、訪問した施設はそうでしたね。スウェーデンでも介護職の人手不足は問題視されているんですが、そのうえで高齢被介護者の生活水準を一般健常者のレベルにまで引き上げようとすると、もっとも単純な方策は介護人員の拡充になるかと思います。これを如何にして実現するか。何らかのシステム変更で対応可能な可能性もありますが、この点についてはさらなる議論が必要かと思います。

次に、高齢者自身がAgeismに陥っていることへの対応ですね。自分の老いを軸にして物事を考えることは、様々現実上での困難に折り合いをつけるうえでは自然かつ精神衛生上良いことかもしれませんが、Ageismに対抗するためには、高齢者自身が自分のさらなる可能性に超したいという意欲を持ち、ステークホルダーとして権利主張をしない限り、政治上のシステム改革にはつながりにくいでしょうから、意識改革が必要かもしれませんな。

終わり。

メタ認知瞑想で共感力が高まるよ、という研究

「汝自身を知れ」は「そだねー」もびっくりの、世代と地域を超えた流行語大賞なわけですが、この格言を冠した論文がドイツ、マックスプランク研究所の研究者らから発表されました。念のためですが、「そだねー」ではなく、「汝自身を知れ」の方です。

 

近年、アメリカを中心に瞑想の効用が注目され、マインドフルネスだのなんだのと様々な概念、方法が飛び交っておりますが、その中の一つ、メタ認知瞑想が他者への共感能力を高めてくれるんでは?という研究が出てまいりました。

 

今回取り上げられた瞑想方法は、自分の思考を観察し傾向ごとに分類していく方法でPerspective-takingなんて呼ばれ方をしております。日本語訳分かんないので、そのまんまですが笑

実験では、被験者に合宿等を織り交ぜながら3か月間瞑想を継続してもらいつつ、被験者同士で自身の経験を語りあう別のセッションにも参加してもらったようです。これだけ聞くと、新興宗教の会合の様ですが(汗)。研究者らはその3か月間の前後で、被験者の共感能力がどれぐらい向上したかを計測したわけです。

瞑想の方法は至って簡単で、一日30分座位で目を閉じながら自分の思考を観察してもらいつつ、そこで観察した思考を「他人について/自分について」「過去について/未来について」「ポジティブか/ネガティブか」の3つの軸で分類し、それぞれの思考に名前をさせたわけです。例えば、僕の場合、細かな英語のミスをしてしまったことにイライラして自分を責めているようなときは、「自分について」「過去について」「ネガティブ」というふうに分類して、その思考を「完璧主義ドリルサージェント」と名付けました。この思考の類型はインナーパーソナリティと呼ばれ、人の心は複数のインナーパーソナリティで出来ると考えられています。

その後、相互セッションでは、自分が見つけたインナーパーソナリティに基づいて最近の出来事を語ってもらい、聞き手は相手がどのインナーパーソナリティで話をしているのか推測するという、半分ゲームのようなことをしてもらいました。これを通じて、話している側は、一つのインナーパーソナリティで一貫して話をしなければならないので、普段では考えないような自分の経験の捉え方ができるなんてことになるんですね。例えば、コンビニで態度の悪い店員さんに会ったとき、普段なら「なんやコイツ、むかつくのう」ぐらいで終わりますが、「慈悲深い母親」なんて見方で考え直すと店員さんには何か嫌なことがあったんじゃないか、なんてことにも考えが及ぶわけです。こうすることで、少しずつ他者の理解が広がりと深まりを見せていくんですね。また、相手の話を聞いている側は、相手がどんなパーソナリティで話しているかを探る過程で、相手の考え方を取り込むのがうまくなっていくわけです。

 

以上、3か月の実験を経て、研究者らは以下の三つの結論を導き出します。

第一に、本人が見つけたインナーパーソナリティのうち、ポジティブとネガティブの割合は、研究者らが別で行った心理分析の結果として判明したポジティブとネガティブとの割合とおおむね一致しました。言い換えれば、心理テストの結果、ポジティブな性質が多いと判断された人は、その結果を知らずとも、ポジティブな自分の因果関係をネガティブよりも多く見つける傾向があり、その逆もしかり、ということですね。

第二に、より多くのインナーパーソナリティを見つけた人ほど、より共感能力の向上が顕著でした。これは、画像や映像の画素数と同じで、細かく分類できているほど、相手の心情の機微を把握しやすくなった、ということかもしれませんね。

第三に、ネガティブなインナーパーソナリティを多く見つけた人ほど、より共感能力の向上が顕著でした。これは意外な結果かもしれませんが、研究者らは、ネガティブな自分の側面と向き合い分析することは辛く根気のいるものであり、その分、ネガティブな側面をより分析できた被験者は真摯に自分と向き合ったということになるため、その結果、より広いレンジで心情を理解できるようになったのではないか、と推測しています。臨床心理の世界でも、自分のネガティブな側面と向き合い、それを客観的に分析することは精神病患者に広く適用される療法だそうで、メンタルの向上に効くようです。

 

この研究に関して、所感は以下の2つ。

自分と向き合って自分の気持ちを分析すること、特にネガティブな部分を受け止めて腑分けすることで、他者への共感力が高まるとのことですが、その場合、ビッグファイブでいう外向性や神経症傾向との関連はあるんでしょうかねぇ。内向的で神経症傾向の高い人は、少なくとも僕の友人の範囲では、自身の負の側面と良く戦っているように思えますし、外向的で神経症傾向の低い人はあまり自分の悪いところにかかづらっているようにも思えないので、陰キャほど人の心が分かり、陽キャほど無神経っていう皮肉な仮説が立つんですが笑

加えて、サイコパスに自身のインナーパーソナリティを分析させたら、そういう結果になるんでしょうか。サイコパシー研究者のケヴィン・ダットン白紙に依れば、サイコパスの特徴の一つとしては、感情の欠如、特に恐怖や心配といった負の感情の異常な不感が挙げられるとのことなので、ネガティブなインナーパーソナリティがほとんど挙がってこないんじゃないかなと思っているわけです。そうなった場合、特にファンクショナル・サイコパスと呼ばれる社会的に成功したサイコパスは、どのようにして他人の気持ちを読めるようになったのか、という点についても興味がありますねー。

 

The Wisdom of Psychopaths

The Wisdom of Psychopaths

 

 

いずれにせよ、「他人がどういう気持ちなのか」ってのは、少なくとも内向的な僕の人生の中では、最大の関心事のうちの一つなので、瞑想で共感力が高まるよ、なんて言われた日にゃ俄然、瞑想へのモチベーションが高まりました笑

終わり。